Sangha‐サンガ

日常に役立つ仏教を考える僧侶のブログ

僧侶の業務は修行?労働?修行した僧侶の視点で考える

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https://www.sankei.com/west/news/180406/wst1804060064-n1.html

世界遺産高野山和歌山県高野町)の寺院に勤める40代の男性僧侶が、うつ病になったのは宿坊での連続勤務が原因だとして、橋本労働基準監督署が労災認定していたことが6日、男性の代理人弁護士への取材で分かった。

 代理人弁護士によると、男性は平成20年から寺院で働き始めた。寺の宿坊の宿泊者らが参加する読経の準備を午前5時前から始め、日中は宿泊者の世話や寺院の通常業務に従事。繁忙期には、就業時間が午後9時まで及ぶこともあった。

 平成27年12月にうつ病を発症し、その後休職。同年の4、5、10月に休みが1日もなく勤務が続いたことなどが原因だとして、29年5月に労基署に労災申請。労基署は同年10月、少なくとも1カ月間の連続勤務が認められるとして労災認定した。

 寺院側の代理人弁護士は「コメントできない」としている。

 

 

 

このお寺がどこかもわかりませんし、高野山にある117の寺院はそれぞれが独立した宗教法人であり、経営や内情もそれぞれの住職に一任されているので、高野山全体がこうした実情ではないというのを先に述べてから、

現実として、寺院での生活は修行か?労働か?という点について、実際に高野山の宿坊寺院で3年間住み込み修行し、高野山の様々な宿坊でお手伝いをした経験からの持論を語ってゆきたいと思います。

 

1 観光寺院・信者寺、檀家寺・宿坊の違い
まず、お寺と一口に言ってもざっくりと4種類あります。

一つは、観光寺院。清水寺東大寺のように、観光客の対応が業務の多くを占め、収益も参拝料がメインとなります。そんななか法会や勤行も行いますが、僧侶でなくとも行える業務が多いのも特徴です。

次に信者寺。成田山新勝寺門戸厄神のように、法事や祈願などに訪れる信者さんの対応を主とする寺院で、一般的に『お寺』というイメージは、こうした寺院ではないでしょうか。結果的に観光寺院となっているお寺も多いですが、違うのは僧侶でなければ行えない業務が多い事です。

もう一つは、檀家寺。最も数が多いのがこの形態で、なんとコンビニや歯医者よりも多いといわれております!

最も格差がある形態ともいえて、寺院だけでは生活できず住職が副業をしているお寺から、多くの職員を雇う大規模なお寺まで様々。基本的には住職などが檀家さんのお家へお参りに赴き、仏壇で短いお経を唱えて回ります。多いときは30件以上のお家を回る上、法事や葬儀なども重なると一日働きッ放し。お彼岸やお盆はかなりハードになります。しかし、自営業のように小規模な経営が多いので、あまり労働基準の問題にならないのも特徴です。

 

そして最後に宿坊。今回問題になっている高野山の寺院は、この宿坊寺院に該当します。高野山は、117ある寺院のうち、実に52もの寺院が宿坊を兼ねています。

一つの地域にこれだけの宿坊があるのはもちろん日本で高野山だけ。『泊まれるお寺』のメッカなのです。

宿坊は、旅館のように個室、浴場を完備し、お食事も提供します。それゆえ、多くの宿坊が従業員を雇っていて、宿坊寺院で働く僧侶はおのずと旅館業務を務めることになります。普段の修行や勤行の準備、法事の他に、客室の掃除や準備、宿泊客の接客、食事の接待などもしなければならないので、業務内容は多岐にわたる上にハード、拘束時間も長くなります。

 

 

2 寺生と呼ばれる高野山の修行僧の一日
高野山では、“寺生”と呼ばれる学生修行僧がいます。お寺で住み込みをし、修行やお手伝いをしながら学校に通う学生で、高校生・大学生が該当します。基本的には「住まわせてもらっている」「ご飯をたべさせてもらっている」「修行をさせてもらっている」という立場になりますので、もちろんお休みはありませんし、お寺の業務を手伝うのも原則は無償です。しかし、最近は寺生になってもすぐ辞めてしまう、そもそも寺生になりたがらない学生も多く、少しでもモチベーションを保ってもらうために休みをあげたり、お小遣いをあげるお寺も多くなっています。

寺生の生活は、朝5時~6時に起床し、朝勤行の準備や宿泊客の案内を始めます。朝勤行に出仕する寺生もいますが、お客さんの布団あげや朝食の配膳にまわる学生も。

朝勤行が終われば、宿泊客の朝食の給仕をして、寺内の掃除をしてから、学校へと向かいます。

午前の授業の後、お寺によっては、中食(昼食)があるので、寺生は寺院へ戻りお客さんへの配膳や給仕を行い、すぐに学校へ戻り授業を受けます。

放課後、休む間もなくお寺へ戻り、宿泊客の対応、夕食の配膳、布団敷きなど慌ただしく働いてから、20:00~21:00ごろに一日を終えます。

もちろんこれは、宿泊客の多い大規模な宿坊の一日であって、お寺によって形態は様々ですが、基本的な流れはこのようになります。

 

3 役僧という雇用形態
役僧というのは、お寺で働く職員である僧侶のことです。上記の寺生のような生活を軸に、学生のいない日中に宿泊客の管理やチェックインの対応、法事などを行います。もちろん日中、数時間の休憩があるところがほとんどですが、気持ちとしては拘束されているように感じてしまいます。

寺生と違い休みもありますし給与が出ますが、今回の問題のように非常に拘束時間が長い上に業務内容もハードなのは事実。お寺という性質上、どこからが業務でどこまでが業務でないかというのが曖昧な部分も多いのが現実と言えます。なので、今回のように過労・心労の末にうつを発症、もっとひどい事が起きていた可能性も多分にあったと言えます。しかし、寺院側とすれば数十年もこうした形態は変わっていないわけで、役僧側から提訴されるというのは青天の霹靂。いままで、役僧の時間外業務に関しては「法務(仏への奉仕)」として考えるのが普通でした。時代が変わってしまったといえばそれまでですが、変わりゆく時代に、身近な所で対応出来ていなかった「身内への甘え」があったのも事実でしょう。

 

4 お寺に住む、ということ
寺生も、役僧も、お寺に住むものとして共通しているのは「仏さまに食べさせてもらっている」ということ。

給与は住職が出していますが、住職がいるだけではお寺に人は集まりません。そこにお寺があり、祈りが生きているからこそ人々はそこに集うのです。そこを勘違いして、「自分の業務によってお客さんが来て、収入があるんだ」と勘違いしてしまうことが、今回の問題の根底にあるのです。これは、住職も、寺生も、役僧も同じです。だれしも、その人本人の力などでは決してなく、「仏さまの手足」としてお客様に接しているだけにすぎません。

また、本来の僧侶のつとめは「祈り」ですから、それを疎かにして接客ばかりに手をとれれ、「働いている」と思ってしまっては、ストレスもたまってゆくばかり。

僧侶は「仏と信者さんをつなぐ架け橋である」という絶対的な事実は、観光寺院でも檀家寺でも宿坊でも変わりません。そこを再確認しなければ、この問題の根本解決はほど遠いでしょう。

日々の勤行、お客さんへの接待、掃除、そのすべてが修行であり、同時に布教であり、仏さまへのお供えでもあります。そこには給与や労働時間を越えた、修行者と仏さまの一対一の世界があるべきなのです。

 

 

5 宿坊の現実
・・・しかしながら、現実問題として、今は21世紀。そんな僧侶としての矜持は、世間には通用しません。世間は「お坊さんは世俗と離れるべきだ!!」といいながらも「労働基準を犯してお坊さんを働かせるなんて常識外れだ!」と叫ぶ、お坊さんとしてはなんとも肩身の狭い話ですが、事実としてそうした厳しい労働環境で苦しむ人が多い以上、これは寺院側が何らかの改善をするほかありません。お坊さんの世界も所詮社会の一部ですから、世俗を離れようにも離れることが出来ないのが現実です。

こと高野山の宿坊に関しては、慢性的な人員不足に悩まされています。お坊さんになろうという人が少ないのが第一、お坊さんを志しても寺生や役僧などの下積みは嫌だという僧侶が多い、そして、過酷な環境で、絶えきれずお寺を辞めてしまう人が多いのも一因です。

この負のサイクルは数十年、徐々に悪化し、得策もないまま今に至り、今回のような問題が表面化するに至ったのです。

さらに、住職が寺生や役僧を弟子ではなく従業員としてしか考えていない、寺生や役僧も、住職を上司としてしか考えていない、かつてのかげりもない希薄なつながりになってしまった師弟関係も、こうしたいびつな雇用形態につながっている一因です。

・・・最近では宿坊でも、寺院としての法事、勤行、信者とのやりとりは僧侶、それ以外の宿坊業務は派遣社員に委託するというところも増えています。最初は、味気ないしお寺らしくないという声もありましたが、こうした問題が起こり、僧侶の業務にも労働基準を求めるような世の中になってしまった現状、こうした方針は一つの解決策といえるかもしれません。

 

 

6 個人的に思うこと
何度も言うとおり、僧侶は、寺生であろうが役僧であろうが、お寺に住んでいるかぎりは修行僧です。お経を唱える時間、信者の方々に接する時間、修行をする時間すべてに給与が発生するようであれば、それはもはや修行でも何でもありません。

ただ、人には生活というものがありますから、やはり給与や休暇は不可欠です。自分自身が「修行ではなく仕事だ」と思うのであれば、なにも僧侶という立場でなくていいわけで、いち従業員として働き、まっとうな給与を請求すればいいのです。

そして寺院側も、寺生や役僧の文化に甘えてばかりではいけないのではないでしょうか。役僧に大きな負担をかけてまでお客さんを取らずに、人員に見合った制限をするか、先述したとおり宿坊業務は思い切って外部に委託するのも手でしょう。

寺院は、仏教を広め、壇信徒の心の拠り所となるのが目的です。宿坊業務はあくまでその方便(手段)のひとつでしかありません。なので、寺院側も、役僧側も、その手段が目的になっているがためにこんないびつな問題が生じているということを再三自覚しなければいけないのではないでしょうか。

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7 まとめ

個人的結論:寺院は、役僧に対して、今の時代にあった勤務や給与・休暇を与えるべき。そして、労働と法施・修行をきっちりと(業務規則で)選定すべき。無理なら客はとらない!

役僧は、従業員である前に僧侶であると自覚して、なんでもかんでも給与を求めるべきではなく、勤行などは自分の修行であり法施(仏様への奉仕)であると再認識すべきでは。(そこの線引きが修行者本人の判断では難しいんですけどね....。)

 

仏教は業(カルマ、おこない)によって結果が生じると説きます。

その業には、共同業と不共業があります。

共同業は、多くの人が少しずつ行ったことが、結果として大きな変化を及ぼすことです。例えば、富士山でのポイ捨て。ひとつのゴミはとても小さいので、「私くらいいいか」とゴミを捨てる。一つゴミがあれば、「私だけじゃないしいいか」と他人も捨てる。そうして、ひとりひとりの捨てるゴミは小さくても、数百人の人がゴミを捨てれば山はたちまち汚れてしまいます。結果、その小さなゴミによって富士山はゴミの山と化し、ユネスコ自然遺産の登録を却下されるに至ったのです。

このように、ひとりひとりの小さな我欲(わがまま)がつもりつもって、とても大きな規模で損害を出してしまう。これが共同業の一つの例です。

また、不共業とは、たった一人の行いが世の中や周りの環境に大きな影響を及ぼすことをいいます。

まるで、たった一人のお坊さんが世間に恥ずべき行為をしたならば、「お坊さんはこういう奴ばかりだ」「お坊さんは信用できない」と、世間全体の信用を失い、ついには志ある若い僧侶の道まで閉ざしてしまいかねないがごとくです。

 

今回の問題は、この共同業(たくさんの寺院としての傾向が、しらずしらず多くの役僧側を追い詰めていったこと)と、不共業(ひとりの役僧の声が、寺院の形態を大きく変えるきっかけとなること)が複雑にからまったものなのではないでしょうか。

どちらが悪い、どちらが正しいとはいいません。寺院側の気持ちも、。役僧側の気持ちもどちらも痛いほどわかります。

いま、寺院というのは、価値観が著しく変化する現代の急流に流されるだけでなくうまく乗りこなすように、その形態を変えてゆく必要があるのかもしれません。そして、僧侶一人一人に向き合い、無理なく修行できる環境を形成してゆくのも急務です。

同時に、僧侶一人一人が、自分は仏さまに生かされているんだということを再確認して、我欲を出さず、謙虚に真摯に、仏事に励まなければならないのではないでしょうか。

 

おわり。ナム。

不悪口院くるとん