Sangha‐サンガ

日常に役立つ仏教を考える僧侶のブログ

パワハラ?愛情?お坊さんからみたスパルタ教育とは・・・映画『セッション』からみる「叱る教育」の功罪②

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続きです。

 

前回は、天才を発掘するためには苛烈な指導は必要か という点を話しました。

個人的には、それは必ずしも必要でないと思っていますし、おそらくこの映画が伝えようとしているのも同じメッセージだと思います。

 

というのも、この映画のラストは、天才を育てることができなかったフレッチャーが、ついにはその苛烈な指導によって学園を追い出され、その告発者の一人である主人公に復讐する・・・というものだからです。(それだけでは終わりませんが・・・笑)

 

苛烈な指導は、もしかしたら天才を生むかもしれません。

しかし、その可能性は非常に低く、100人指導しても一人も天才が生まれないことだってあるでしょう。

逆に、生徒の心を打ち砕き、挫折させてしまう可能性はかなり高い。

100人中、100人が挫折してしまってもなんら不思議ではありません。

そうして挫折していった者たちを「奴らは才能がなかった」で片づけるのは簡単ですが、指導方法さえ違えば芽吹いていた才能だってあったはずなのです。

 

この映画の脚本・監督でもあるデミアン・チャゼル自身も、もとはジャズの演奏者として一流の教育を受けながらも挫折した過去があり、そうした異色の経歴や経験が、この名作を生んだのでしょう。

おそらくこの映画が伝えたかったのは

苛烈な指導は、1人の天才を生むかもしれない。けれどそれ以上に人の心を壊してしまう。

ということだったのではないでしょうか。

 

仏教には、対機説法という言葉があります。

それは、相手の機根(才能や能力)に対応して、ひとりひとり違う方法で説法するというものです。

まじめすぎる人には「まぁもう少し力を抜いて」と、逆に不真面目な人には「もうすこしコツコツやりなさい!」と、相手に応じて指導方法を変えていたんです。

相手に必要な教えを説く・・・だから仏教には様々な宗派があり、決められた一方向の教義がないんです。

優秀な一つのパターンをすべての人に当てはめるというのはいかにも西洋的ですが、柔軟さに欠けます。

ブッダは「中道ことが真理の道である」と説きましたから、なんにせよ行き過ぎた、極端ななにかは仏教的ではないんです。

 

・・・というわけで、僕の考えとしては

厳しい指導が必要で、かつそれに耐えられる人間であるならば苛烈な指導はあり。

しかし、大多数はそうではない。

苛烈な指導で、相手に努力を強要する前に、指導者が一人一人を見極め、それに応じた指導をすべきだ

ということです。

 

なんだか期間が開いてしまったので何を書きたいか忘れてしまいました。笑

でもこんなところです。

 

それでは。

 

おわり。ナム!

不悪口院くるとん