Sangha‐サンガ

日常に役立つ仏教を考える僧侶のブログ

パワハラ?愛情?お坊さんからみたスパルタ教育とは・・・映画『セッション』からみる「叱る教育」の功罪①

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最近更新が滞っています・・・

最近、夜に参拝者をご案内するというお仕事に参加し始めたのでなかなか時間がなかったのですが、一昨日その仕事に空きができたので、久々に映画を見ながらゆっくりとした時間を過ごせました。過ごせたのですが・・・・!

 

思いのほか激しい映画でした、今回見た映画『セッション』。

今回は、そのレビューも交え、この映画から考察する

「教育」パワハラ

そして現代社会が抱える「滅びゆく文化の継承」について述べていきたいと思います。

あらすじ

セッション』(原題: Whiplashは、2014年アメリカ合衆国で製作されたドラマ映画である。監督・脚本はデミアン・チャゼル、主演はマイルズ・テラーが務めた。第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、J・K・シモンズ助演男優賞を含む3部門で受賞した。(wikipedia参照)

主人公アンドリュー・ニーマンは19歳の天才ジャズ・ドラマー。その才能を認められ、アメリカで最高の音楽学校「シャッファー音楽学校」へと進学した。バディ・リッチのような偉大なドラマーになるという夢に向かってドラムの練習は欠かさなかったが、彼も年頃の大学生。人並みに恋愛にも憧れ、映画館で働いている大学生の二コルに恋をしていた。

そんなある日、ニーマンの教室にシャッファー音楽学校最高の指揮者、テレンス・フレッチャーがやってくる。フレッチャーはニーマンの才能に惚れて、彼をシャッファー最高峰である自身のスタジオ・バンドに招いた。このオファーにはニーマンも有頂天。同時にニコルとも交際を始めて、華々しい大学生活が待っているかのように思えた・・・

 

※ある程度ネタバレをしてしまうかもしれませんが、もう4年前の映画なのでご容赦を。

 

まず、この映画の根幹をなすのが主人公・ニーマンの「最高のドラマーになりたい」という野望と、指導者フレッチャーの狂気的に苛烈な指導です。

 

将来有望なドラマーであるニーマンの才能を見込んだフレッチャーですが、他のバンドメンバーと比べても異常なほどにニーマンを追い込み、過激に指導します。

椅子を投げる、家族を侮辱する、連続ビンタ、なんでもありです

しかし、ニーマン自身もフレッチャーの指導力を誰よりも認めているので、血まみれになりながらも彼に認められようと食らいつきます。

どれだけ努力をし、恋人や親族とも距離を置き、孤独に、狂気的にドラムに没頭するニーマン。もはや彼には「偉大なドラマーになる」という成功への野望と、決して自分をほめることのないフレッチャーを認めさせたいというある種の執着心しか残っていないようにも思えます。

ニーマンは「成功しなければ人生が終わる」と言わんばかりに、全てをなげうって文字通り血のにじむ努力を続けますし、フレッチャーは「まだ足りない!」と彼をさらに追い込みます。その両者の狂気はついに破たんをむかえ、ニーマンは挫折して学校を去り、フレッチャーは苛烈な指導が問題視され指導者の立場を追われることとなり、同じく学校を去ります。

 

最も危険な言葉は「グッド・ジョブ」。心を揺さぶるフレッチャーの言葉。

その後しばらくして、ひょんなことからジャズバーで再開を果たす二人。

その時語ったフレッチャーの教育論が、個人的にはこの映画で一番印象的でした

 

実際私のことなど誰も理解していない。

 学院で何を目指していたか。

 誰にでもできる、腕を振って拍子をとるだけなら。

 

 私はみんなを期待以上のところまで押し上げたかった。

 それこそが、絶対に必要なんだ。

 でなきゃ生まれない、次のサッチモも、チャーリー・パーカーも。

 

 サックスの名手だったチャーリーが10代のころ、ジャム・セッションでヘタをさらした。

 ジョージョーンズにシンバルを投げつけられ、笑われながらステージを降りた。

 その夜は泣きながら寝たが、翌朝から、練習に没頭した。

 来る日も来る日も、一つの誓いを胸に。

 ー二度と笑われまいと。

 

 一年後、再びステージに立った彼は史上最高のソロを聴かせた。

 もし、ジョーンズが言っていたら?

 「平気さチャーリー。大丈夫、グッド・ジョブ(上出来)だ」

 チャーリーは満足。「そうか、上出来か」

 そうしたら、『バード』は生まれていない。

 私にしたらそれは究極の悲劇だ。

 

 だが世の中甘くなった。

 ジャズが死ぬわけだ。

 カフェあたりで売っているジャズのCDが証明している。

 

 英語で最も危険な言葉はこの二語だ。

 『Good』『Job(上出来))だ。

 

 

そこで、ニーマンは「でもあなたは一線を越えていた。未来のチャーリーを挫折させたのでは?」と問います。するとフレッチャーは

 

いいや、次のチャーリーは何があろうと挫折しない。

 

 正直に言えば、育てられなかったんだ。

 努力はした。それこそ必死に、なみの教師にはできないほどに。

 それを謝罪する気はない。

 必死の努力をしたんだ。

 

フレッチャーの教育論から思う、現在の教育観。

このフレッチャーの言葉に、心打たれたのは僕だけじゃないはずです。

彼には、ジャズ文化が滅びゆく危機感と、それを復興すべく後進を育てなければならないという使命感、その二つに突き動かされた教育者だったのです。

「上出来だ」だけでは、ある程度演奏できる奏者は生まれても、時代をけん引し、文化を後世に伝えるほどの天才は現れない。

才能ある若者を、低いレベルで満足させてはいけないと思っていたんです。

過剰に苛烈な指導は、決して憎いとか、ストレスの発散とかではないんですね。

 

現代の、「ほめて伸ばす」「みんな一緒に」「できる範囲で頑張ろう」という教育は、生徒側も指導者側もとても楽です。感情が生まれないので、怒ることなく、へこむことなく、ほどほどに楽しく過ごすことができるのです。

 

しかし、その結果「ほめられないと納得できない」「怒られるとすぐ投げ出す」「努力が続けられない」という若者が多くなっているのも事実。

また、ものごとの本質を考えないで表面ですべてをとらえてしまうので、分野の教育が浅くなってしまいます。

さらに、自分で考えたり開拓せず、与えられたミッションだけをこなす癖がついてしまいます。

スポーツなど理論と体格で改善できる分野は影響が少ないのですが、音楽や芸能、宗教や伝統文化はその傾向が顕著です。

そういった、甘くなった世の中の教育論に一石を投じようというのが、このフレッチャーの言葉だったのではないでしょうか。

 

ほめてはいけない。ほめることは相手の未来を殺し、文化を死なせる行為だ

という思いを秘めていたとすれば、フレッチャーのあの苛烈さも少しは納得がいくのです。

 

しかし・・・この映画には『裏』がある。

と、ここまではフレッチャーサイドの視点でみたここまでの考察です。

多分に肯定的な意見を述べましたが、僕個人は教育に過剰な暴力や暴言は必要ないと思っています。

※頭をはたいた、どなったくらいで大騒ぎするのは違いますけどね!

 

というのも、こうした教育は1人の天才を発掘生み出すかもしれませんが、100人の凡才の心を壊してしまうことにもなりかねないからです。

(作中でも、フレッチャーが認めた数少ない天才が、彼の指導が原因で自殺してしまっているという描写があります。)

作中でフレッチャーが「見つけられなかったんだ、次のチャーリーを」

と言っているのが何よりの証明で、苛烈な指導が後進を育てるとは限らず、多分にリスクを伴う危険な賭けだということを如実に示しています。

彼のセリフは、実はガッツリ矛盾しているんです。

そう、この映画には

監督が仕掛けた、巧妙な「裏」があり、それは監督自身の来歴が影響しているのです。

 

次回はその辺を掘り下げながら、レビューと考察をしていきたいと思います!

 

ひとまず!

 

おわり!ナム!

不悪口院くるとん

 

 

※ちなみに僕は普段これ↓で映画を見ています。