Sangha‐サンガ

日常に役立つ仏教を考える僧侶のブログ

仏教に墓や先祖供養の概念はない?仏典から見えてくる仏教式先祖供養の歴史

 f:id:sangha:20180227091626j:image

先般、テレビにて「仏教の先祖供養」についての放送がされてから、職場にクレームの電話が。

「仏教に墓やら先祖供養の教義なんてないんじゃ!」という怒号の嵐でした。

はじめはものすごいお怒りの様子でしたが、ただのクレーマーではなく、仏教を熱心に信奉した上でかなり勉強をされている方(偏りはありましたが・・・)だったので、

「話せばわかってくれる」と思い、40分ほど電話でお話をさせていただきました。

最後には、意見の相違はあれど穏やかな様子で「またお話ししましょう!」とおっしゃっていただく事が出来ました。しかしながら、テレビで編集された映像というのは怖いものです・・・

 

そこで今回は、この方とお話しした内容をまとめ、『仏教に先祖供養や墓の概念はない?仏典から見えてくる仏教式先祖供養の歴史』と題して解説していこうと思います。

 

 

 

↑インドの典型的なストゥーパ(仏塔)

  1. お墓のルーツは「ストゥーパ(仏塔)」

f:id:sangha:20180227091746j:image

よく「もともとの仏教に墓はない!」とおっしゃる方がいらっしゃいます。

確かに、釈尊在世当時のインドでは、死んだらすぐに輪廻するという思想から鳥葬や川に流す流葬が多かったのは事実です。

しかし、釈尊が入滅された後、その御身体は荼毘(火葬)にふされ、その舎利(遺骨)を弟子達や信者が分け合いました。そして、インドを統一し仏教を国教としたアショーカ王釈尊の舎利を集めて各地の塔に納め、そこに信者が集まりその遺徳を讃えました。その舎利を納めた塔をストゥーパ(仏塔)」といい、中国で「卒塔婆」と音写されました。そう、このストゥーパこそが、仏教のお墓のルーツなのです。

その文化は日本にも伝わり、仏教伝来以降、日本の墓石は五輪塔の形で製作されるようになりました。また、簡易な墓は、木で仏塔を表した卒塔婆を立てることで、仏塔を表していたのです。

 f:id:sangha:20180227091626j:image

高野山奥之院の墓石・五輪塔

 

f:id:sangha:20180227091937j:image

ストゥーパ卒塔婆五輪塔

 

墓という概念は、中国や神道の影響を受けつつも決して完全な日本オリジナルではなく、そのルーツを釈尊の時代にまで遡る事が出来るのです。

 

 

 

  1. 仏教経典に見られる初めての死者供養は「お釈迦様の説法」
  2. f:id:sangha:20180227092045p:image

次に、「仏教ではいつから死者への供養をしていたのか」について解説します。

大乗経典の中でも最も古いものに法華経があります。原典はサンスクリット語の『Saddharma Puṇḍarīka Sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』。れっきとしたインドの経典です。

※「そもそも大乗仏教釈尊の教えじゃないだろ!」とおっしゃる方に関しては、もう僕の力ではその考えを覆しうる説明ができませんので、これ以降は見ないでいただくか、大乗仏教徒としてのいち考えとしてご覧下さい。笑

この法華経は、かなり早い段階に釈尊の教えをまとめた初期大乗経典ですが、その内容はここでは割愛します。

大事なのは、釈尊がこの経典を説いた場所です。

釈尊は、この法華経の教えの多くを霊鷲山(鷲峯)」で説いたとされています。霊鷲山はというのは「ワシの多い山」という意味ですが、なぜ釈尊は人里や修行林ではなく、この霊鷲山法華経を説いたのでしょう。

実は、この霊鷲山は、亡くなった方を鳥葬するための山であり、運ばれた無数の死体が転がり、ワシの群れがそれをついばむ、今で言うところの墓場だったのです。

釈尊は、そんな霊鷲山で説法を行った。この説法は、生きた人間に向けたものではなく、亡者への説法だったといわれています。釈尊は、生きている人間のみならず、死した亡者すらも救わんと説法していたのです。

それを「鷲峯説法」といい、これが仏典にみられるはじめての追善供養(死者への供養)と考えられます。

法華経は、釈尊入滅後500年ほど経ってから成立したものですが、霊鷲山での説法は実際に行われていたという記録が数多く残っているため、おそらくそれを参考に法華経を説くシーンを記したのではないでしょうか。

成立年代やサンスクリット語での原典があることから考えて、仏教の死者供養は日本独自の物ではなく、インドではすでに行われていたと思われます。

 

  1. 日本の先祖供養の概念は神道との融合で生まれた

 

f:id:sangha:20180227092053j:image

高野山奥之院に多く見られる鳥居を用いた暮石

 

さて、最後に日本の墓と、先祖供養について解説します。

②で解説した、釈尊が行った死者への供養ですが、釈尊は特定の人物への供養をしたという記録は初期仏典では見受けられません。

なので、自分の先祖を対象にした先祖供養は、やはり日本で確立されたものだといっても良いでしょう。

その背景には、古来から日本人が持ってきた「祖霊信仰」があります。

祖霊信仰とは、死んだ祖の霊が山へ行き、そこで神となり、正月や盆に山から下りてくる、というもの。

そして、その先祖神が子孫に豊作をもたらし、子孫は先祖に感謝する、という信仰がありました。その考えが稲作信仰にも関係してゆくのですが、その解説はまた後日。なんにせよ、古代日本では「先祖は神になって山の上にのぼってゆき子孫を見守り、子孫は自分を生かしてくれる先祖に感謝する」という祖霊信仰が根底にあったのです。

そこに、渡来した仏教の思想が合わさり、先祖への感謝=先祖への追善供養となったのです。

高野山・奥之院にある墓原は、周囲に殯(もがり)とよばれる柵があり入り口には鳥居、中には五輪塔ストゥーパがあります。これは、まさに神道の祖霊信仰と仏教供養の思想が見事に調和したものであり、日本の先祖供養感を知る重要な手がかりになるのです。

 

結論を言うと、古代日本の「死んだ人間は山(死後の世界、神の世界)にのぼって神になる」という祖霊信仰が、仏教の影響を受けて「死んだ人間は兜率天(仏教世界の、高い山の上にある天界)にのぼり、弥勒菩薩のもとへゆく」「死んだ人間は、仏そのものになる」という先祖観へと変貌したのです。

なので、今日の仏教における墓まいりや先祖供養を一概に「仏教にはない!」と言うのはいささか浅はかであり、仏教の供養と神道の祖霊観が、互いの良さを残したまま融合し、日本人に求められたのが現在の日本の先祖供養の形だからです。

 

おわりに

個人的には、先祖供養というのは、亡くなった先祖の為におこなうというよりは、残された子孫の為に行っているものだと思うのです。

大切な人の死は辛く、悲しい。でも、今生きているのは間違いなく先祖や、周りの人々のおかげです。そのことに感謝し、供養することで、残された人の心に安心を与え、穏やかに立ち直ることが出来るんです

釈尊の時代とは方法も形も違うかもしれませんが、死者を偲ぶという人間の本能にはかわりありません。日本人には、日本人にしかわからない死生観があります。

それをうまく補ってきたのが、神道と仏教のハイブリットである先祖供養観だったのではないでしょうか。

 

 

おわり。ナム!

不悪口院くるとん