Sangha‐サンガ

日常に役立つ仏教を考える僧侶のブログ

Spoon というラジオアプリで配信してみました。

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みなさんこんにちは。暑い日が続いていますが、熱中症などにはなられていませんでしょうか...?

僕は今、知り合いのお寺さんのお手伝いで、お盆のお参りに奔走している真っ最中でございます...

 

さて、このたび、Spoonというアプリを発見いたしまして、登録してみました。

これは、誰でも簡単にラジオを配信できるというもので、以前から「文章もいいけどラジオしてみたいなあ」と思っていた僕にはうってつけのアプリです。

↓ラジオアプリ「spoon」

キャスト(録音)で配信してみました

不悪口院のRadio-Ji(ラジオ寺)

 

https://www.spooncast.net/jp/cast/34188

 

※音声が出るかもしれませんのでご注意ください。また、アプリ自体の宣伝ではありません!笑

 

いっちょ、15分ほど話してみたんですが...

 

自分の声はずかしい

滑舌の悪さに気づく

話がまとまっていない

という三重苦を突きつけられました。

 

ああ、ライブじゃなくてよかった...笑

っていうか肝心の題名いい忘れてるじゃん。

ラジオ寺ね、ラジオ寺。笑

 

できるだけ、毎週土曜日にでも配信していこうと思いますので、もしよければみなさん、聞いてみてください!

(アプリをダウンロードしなくても、ウェブ上で聴けるそうです。)

 

このブログをメインに、いろんな形でなにかを発信できればいいなーと思っています。

 

今後とも、よろしくお願いします!

 

おわり!ナム!

不悪口院くるとん

高野山 宿坊寺院の僧侶によるネットでの発言に物議。高野山のお坊さんからみたその実情と原因とは?

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/07/post-10691.php

 

またもや、高野山の宿坊が世間で物議を醸しています。

内容としては、

>マーティンさんがツイートしたスクリーンショットには、宿泊客からの次のようなコメントが含まれていた。「食事は質素なベジタリアン料理」、「例えば建物の歴史や教団について、それから僧侶としての生活について(中略)などを英語でもう少し説明してくれたらもっとよかったと思う」。

 

>このコメントへの宿泊施設側からの正式な回答として、次のような返信が投稿されていた。

「ここは究極的には修行の場だ。当然ながら、食事その他はすべて質素なものになる」。さらに、「西洋人だからという理由だけで特別扱いはしない」、「特別に説明してもらう人は誰もいない。これまでずっとそうだった」、「あなたが日本語や日本の文化を理解すればいいだけだと思うけど、でもそうじゃないんだろ。そんなに僧侶の生活に興味があるなら、頭を剃って自分が僧侶になればいい。以上」というものだった。

 

>またアメリカのエリックという人物が書いたコメント「スタッフがそっけなかった」に対しては、「なぜ我々がフレンドリーにしなければいけないんだ?????君たちはなんのためにここに来ているんだ???宿坊に対してなぜそんな歪んだ考え方を持っているんだ??」と返信されている。

 

>さらに別の人の「夕食と朝食は菜食主義で、これまでまったく食べたことがない味だった。不思議」というコメントには、「そう、日本の精進料理っていうんだよ、教養のないクソ野郎が」と、非常にきつい罵り語の1つ「Fワード」を使って返信が書かれている。

 

以上の点を、実際に高野山に住み、宿坊での修行経験、またお手伝いで高野山の様々な宿坊を渡り歩いた経験を元に考察してゆきます。

 

1 お寺はホテルではない
ひとつは、この僧侶が言うとおり、大前提として本来お寺はホテルではなく、あくまで修行の場であり、宿坊というのは高野山にお参りに来る方を「簡易的に」宿泊させるための施設であるということ。

しかしながら現状、高野山の寺院は、宿坊経営に収益のほとんどを頼っていて、そこに従事する職員や、寺で修行する僧侶の業務内容も、大部分が宿坊に泊まる宿泊客の対応なのです。

そしてなにより、宿坊をうたい、国内外の宿泊サイトに情報を掲載するのであれば、やはり最低限のサービスとマナーを提供するのは、これは至極当然であるということです。

「究極的には修行の場である」から、お金を払って宿泊する方に満足のゆく接客をせずに不快感を与えるくらいなら、そういったサイトに掲載しない方がましです。

 

2 修行の場だから・・・は甘
そして、高野山の多くの寺院の生活の中心が宿坊であるから、当然本来の修禅道場としての修行は二の次になります。事実、現在、高野山の宿坊寺院で修行する僧侶は「まず宿坊の仕事をして、空いた時間に、自分で修行をする」というのが実情なのです。

「修行をする僧侶がいる宿坊で泊まることが出来る」・・・そんな特別な空間を提供するのが宿坊の魅力なのに、宿坊が忙しいので修行ができない・・・なんともお粗末な本末転倒です。これにかんしては、僧侶自身というよりは、宿坊を経営する住職にもその責任があるといえます。

また、まともに修行が出来ていないにも関わらず、宿坊すらも疎かにして、それを指摘されたら「ここは修行の場だから質素だし、愛想がないのも仕方が無い」というのは、僧侶自身の甘えに他なりません。もし厳しい修行の合間、まさにその空間に宿泊客が「お邪魔させてもらっている」のなら致し方ありませんが、宿坊の掃除の行き届き方、僧侶の態度、お寺の雰囲気などをみれば、僧侶でなくともその是非は一目瞭然です。

修行をまともに出来ていないなら、せめてお参りにきた方々に、少しでも高野山のすばらしさ、ひいては弘法大師空海密教のすばらしさを、接客を通して伝える努力をするのが僧侶たる者の姿勢ではないでしょうか。

 

3 「僧侶にもフラストレーションが・・・」暴言を吐いた罪と、その心の罪は消えない

 

そもそも、真言宗には基本となる「十善戒」があります。

それは、身(行動)と口(言葉)と意(こころ)でそれぞれ犯してしまう業(おこない)。それを見つめ直して、良きは行い、悪きは行わない、というものです。

 

十善戒

(身)

不殺生(故意に生き物を殺さない。

不偸盗(与えられていないものを自分のものとしない。

不邪淫(不倫など道徳に外れた関係を持たない。

(口)

不妄語(嘘をつかない。

不綺語(中身の無い言葉を話さない。

不悪口(乱暴な言葉を使わない。

不両舌(他人を仲違いさせるようなことを言わない。

(意)

不慳貪(激しい欲をいだかない。

不瞋恚(激しい怒りをいだかない。

不邪見(善悪業報、輪廻等を否定する誤った見解を持たない

 

・・・このなかで、もっともよく犯してしまいがちで、かつそれを悪いとも思いづらいのが

不悪口(乱暴な言葉を使わない。)

不瞋恚(激しい怒りをいだかない)

です。

 

正直、この僧侶が言うことは、すべて間違っているとも思えません。事実、宿坊には色んな方がいらっしゃいますが、とても横柄な方、過剰なサービスを求めてそれに応えられないと異常なクレームを言う方、さわいでお寺の雰囲気を害し他のお客さんにまで迷惑をかける方、様々いらっしゃいます。それは日本内外、西欧東洋の別を問いません。しかも、いまはネット社会で、匿名のままあとからいくらでも理不尽なクレーム、低評価をつけることが出来ます。

しかも、ごく簡単に。

そういった方にこそ「お寺は修行の場だ」というのは間違っていないと思います。

 

しかし、その思いを感情のままにさらけ出した時点で、この僧侶は「星ひとつ」と評価せざるを得ないのです。

この僧侶は、批判をされたことにたいして瞋恚(激しい怒り)を起こし、その感情のままネットで悪口(乱暴な言葉)を吐いてしまいました。

日頃からフラストレーションがたまっていたと言って反省していますが、まずフラストレーションをゆがんだ方法で処理しようという心がそもそも修行不足と言えますし、それを言葉に出した時点でいよいよその悪しき思いは相手に伝わり、不快な思いをさせた罪は絶対に消えることはないのです。

 

4 ネット世界の弊害と、高野山宿坊寺院の仮題

しかし、正直僕はこの僧侶を激しく責め立てる気にはなりません。今回たまたまこの僧侶が、英語が堪能だったために世界に悪い形で広まってしまっただけで、今回の騒動に至った原因、経緯はもっともっと深いところにあり、長い時間をかけて形成されていったものなのです。そんな巨大な氷山の、ほんのひとかけらがいま露出しただけなのです。

それは、まずはネット社会。世間でさんざん語り尽くされているのであえてこの場で深くは言いませんが、誰もが自由に、名前と顔を隠して好き勝手発言できる世の中は、良いものなど何も生み出しません。SNSなども、最低限身分を明らかにしなければ、これ以上危険なものはないのです。(僕もペンネームでブログを書いているので、人のことは言えませんが...そのため誹謗中傷は書かないよう心がけています。)

思慮もせず、感情のまま誹謗中傷する癖が、現代人には根付いてしまっています。だからこそ今回、互いにネットを介して「好きなこと言って良いんだ」と勘違いをし、騒動を生んでしまったのです。

 

もう一つは、高野山の宿坊寺院の問題。

これは、前回の記事「僧侶の業務は修行?労働?修行した僧侶の視点で考える」(http://sangha.hatenablog.com/entry/2018/05/17/170843)でも書きましたが、高野山の宿坊寺院の現状はかなりひどい、というのが正直なところです。

修行とうたって僧侶を労働力としてしかみていない、宿坊寺院の経営のありかた。修行は自分でしてねと言わんばかりに、住職は弟子に何も教えない・・・そんな、宿坊寺院の甘えが、こんな所にも現れてしまっているのです。

 

5 最後に
膿は、見えづらいけれどどこかにたまっていて、大丈夫だろうと思っていてもいつか破裂してしまいます。いま、高野山は、そんな膿がたまりきって、すこしづつ、すこしずつ漏れ出ているような状況です。そのひとつが、弟子を育てる場であるはずの宿坊寺院の現状。このままにしていては、観光地としての高野山は存続するとしても、最も大切な教えの伝承と、お参りに来る人々の信仰心が失われてしまいます。

いま、まだ大きな破裂をしていないうちに、高野山のありかたを考え直すべき時ではないでしょうか。

僧侶の業務は修行?労働?修行した僧侶の視点で考える

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https://www.sankei.com/west/news/180406/wst1804060064-n1.html

世界遺産高野山和歌山県高野町)の寺院に勤める40代の男性僧侶が、うつ病になったのは宿坊での連続勤務が原因だとして、橋本労働基準監督署が労災認定していたことが6日、男性の代理人弁護士への取材で分かった。

 代理人弁護士によると、男性は平成20年から寺院で働き始めた。寺の宿坊の宿泊者らが参加する読経の準備を午前5時前から始め、日中は宿泊者の世話や寺院の通常業務に従事。繁忙期には、就業時間が午後9時まで及ぶこともあった。

 平成27年12月にうつ病を発症し、その後休職。同年の4、5、10月に休みが1日もなく勤務が続いたことなどが原因だとして、29年5月に労基署に労災申請。労基署は同年10月、少なくとも1カ月間の連続勤務が認められるとして労災認定した。

 寺院側の代理人弁護士は「コメントできない」としている。

 

 

 

このお寺がどこかもわかりませんし、高野山にある117の寺院はそれぞれが独立した宗教法人であり、経営や内情もそれぞれの住職に一任されているので、高野山全体がこうした実情ではないというのを先に述べてから、

現実として、寺院での生活は修行か?労働か?という点について、実際に高野山の宿坊寺院で3年間住み込み修行し、高野山の様々な宿坊でお手伝いをした経験からの持論を語ってゆきたいと思います。

 

1 観光寺院・信者寺、檀家寺・宿坊の違い
まず、お寺と一口に言ってもざっくりと4種類あります。

一つは、観光寺院。清水寺東大寺のように、観光客の対応が業務の多くを占め、収益も参拝料がメインとなります。そんななか法会や勤行も行いますが、僧侶でなくとも行える業務が多いのも特徴です。

次に信者寺。成田山新勝寺門戸厄神のように、法事や祈願などに訪れる信者さんの対応を主とする寺院で、一般的に『お寺』というイメージは、こうした寺院ではないでしょうか。結果的に観光寺院となっているお寺も多いですが、違うのは僧侶でなければ行えない業務が多い事です。

もう一つは、檀家寺。最も数が多いのがこの形態で、なんとコンビニや歯医者よりも多いといわれております!

最も格差がある形態ともいえて、寺院だけでは生活できず住職が副業をしているお寺から、多くの職員を雇う大規模なお寺まで様々。基本的には住職などが檀家さんのお家へお参りに赴き、仏壇で短いお経を唱えて回ります。多いときは30件以上のお家を回る上、法事や葬儀なども重なると一日働きッ放し。お彼岸やお盆はかなりハードになります。しかし、自営業のように小規模な経営が多いので、あまり労働基準の問題にならないのも特徴です。

 

そして最後に宿坊。今回問題になっている高野山の寺院は、この宿坊寺院に該当します。高野山は、117ある寺院のうち、実に52もの寺院が宿坊を兼ねています。

一つの地域にこれだけの宿坊があるのはもちろん日本で高野山だけ。『泊まれるお寺』のメッカなのです。

宿坊は、旅館のように個室、浴場を完備し、お食事も提供します。それゆえ、多くの宿坊が従業員を雇っていて、宿坊寺院で働く僧侶はおのずと旅館業務を務めることになります。普段の修行や勤行の準備、法事の他に、客室の掃除や準備、宿泊客の接客、食事の接待などもしなければならないので、業務内容は多岐にわたる上にハード、拘束時間も長くなります。

 

 

2 寺生と呼ばれる高野山の修行僧の一日
高野山では、“寺生”と呼ばれる学生修行僧がいます。お寺で住み込みをし、修行やお手伝いをしながら学校に通う学生で、高校生・大学生が該当します。基本的には「住まわせてもらっている」「ご飯をたべさせてもらっている」「修行をさせてもらっている」という立場になりますので、もちろんお休みはありませんし、お寺の業務を手伝うのも原則は無償です。しかし、最近は寺生になってもすぐ辞めてしまう、そもそも寺生になりたがらない学生も多く、少しでもモチベーションを保ってもらうために休みをあげたり、お小遣いをあげるお寺も多くなっています。

寺生の生活は、朝5時~6時に起床し、朝勤行の準備や宿泊客の案内を始めます。朝勤行に出仕する寺生もいますが、お客さんの布団あげや朝食の配膳にまわる学生も。

朝勤行が終われば、宿泊客の朝食の給仕をして、寺内の掃除をしてから、学校へと向かいます。

午前の授業の後、お寺によっては、中食(昼食)があるので、寺生は寺院へ戻りお客さんへの配膳や給仕を行い、すぐに学校へ戻り授業を受けます。

放課後、休む間もなくお寺へ戻り、宿泊客の対応、夕食の配膳、布団敷きなど慌ただしく働いてから、20:00~21:00ごろに一日を終えます。

もちろんこれは、宿泊客の多い大規模な宿坊の一日であって、お寺によって形態は様々ですが、基本的な流れはこのようになります。

 

3 役僧という雇用形態
役僧というのは、お寺で働く職員である僧侶のことです。上記の寺生のような生活を軸に、学生のいない日中に宿泊客の管理やチェックインの対応、法事などを行います。もちろん日中、数時間の休憩があるところがほとんどですが、気持ちとしては拘束されているように感じてしまいます。

寺生と違い休みもありますし給与が出ますが、今回の問題のように非常に拘束時間が長い上に業務内容もハードなのは事実。お寺という性質上、どこからが業務でどこまでが業務でないかというのが曖昧な部分も多いのが現実と言えます。なので、今回のように過労・心労の末にうつを発症、もっとひどい事が起きていた可能性も多分にあったと言えます。しかし、寺院側とすれば数十年もこうした形態は変わっていないわけで、役僧側から提訴されるというのは青天の霹靂。いままで、役僧の時間外業務に関しては「法務(仏への奉仕)」として考えるのが普通でした。時代が変わってしまったといえばそれまでですが、変わりゆく時代に、身近な所で対応出来ていなかった「身内への甘え」があったのも事実でしょう。

 

4 お寺に住む、ということ
寺生も、役僧も、お寺に住むものとして共通しているのは「仏さまに食べさせてもらっている」ということ。

給与は住職が出していますが、住職がいるだけではお寺に人は集まりません。そこにお寺があり、祈りが生きているからこそ人々はそこに集うのです。そこを勘違いして、「自分の業務によってお客さんが来て、収入があるんだ」と勘違いしてしまうことが、今回の問題の根底にあるのです。これは、住職も、寺生も、役僧も同じです。だれしも、その人本人の力などでは決してなく、「仏さまの手足」としてお客様に接しているだけにすぎません。

また、本来の僧侶のつとめは「祈り」ですから、それを疎かにして接客ばかりに手をとれれ、「働いている」と思ってしまっては、ストレスもたまってゆくばかり。

僧侶は「仏と信者さんをつなぐ架け橋である」という絶対的な事実は、観光寺院でも檀家寺でも宿坊でも変わりません。そこを再確認しなければ、この問題の根本解決はほど遠いでしょう。

日々の勤行、お客さんへの接待、掃除、そのすべてが修行であり、同時に布教であり、仏さまへのお供えでもあります。そこには給与や労働時間を越えた、修行者と仏さまの一対一の世界があるべきなのです。

 

 

5 宿坊の現実
・・・しかしながら、現実問題として、今は21世紀。そんな僧侶としての矜持は、世間には通用しません。世間は「お坊さんは世俗と離れるべきだ!!」といいながらも「労働基準を犯してお坊さんを働かせるなんて常識外れだ!」と叫ぶ、お坊さんとしてはなんとも肩身の狭い話ですが、事実としてそうした厳しい労働環境で苦しむ人が多い以上、これは寺院側が何らかの改善をするほかありません。お坊さんの世界も所詮社会の一部ですから、世俗を離れようにも離れることが出来ないのが現実です。

こと高野山の宿坊に関しては、慢性的な人員不足に悩まされています。お坊さんになろうという人が少ないのが第一、お坊さんを志しても寺生や役僧などの下積みは嫌だという僧侶が多い、そして、過酷な環境で、絶えきれずお寺を辞めてしまう人が多いのも一因です。

この負のサイクルは数十年、徐々に悪化し、得策もないまま今に至り、今回のような問題が表面化するに至ったのです。

さらに、住職が寺生や役僧を弟子ではなく従業員としてしか考えていない、寺生や役僧も、住職を上司としてしか考えていない、かつてのかげりもない希薄なつながりになってしまった師弟関係も、こうしたいびつな雇用形態につながっている一因です。

・・・最近では宿坊でも、寺院としての法事、勤行、信者とのやりとりは僧侶、それ以外の宿坊業務は派遣社員に委託するというところも増えています。最初は、味気ないしお寺らしくないという声もありましたが、こうした問題が起こり、僧侶の業務にも労働基準を求めるような世の中になってしまった現状、こうした方針は一つの解決策といえるかもしれません。

 

 

6 個人的に思うこと
何度も言うとおり、僧侶は、寺生であろうが役僧であろうが、お寺に住んでいるかぎりは修行僧です。お経を唱える時間、信者の方々に接する時間、修行をする時間すべてに給与が発生するようであれば、それはもはや修行でも何でもありません。

ただ、人には生活というものがありますから、やはり給与や休暇は不可欠です。自分自身が「修行ではなく仕事だ」と思うのであれば、なにも僧侶という立場でなくていいわけで、いち従業員として働き、まっとうな給与を請求すればいいのです。

そして寺院側も、寺生や役僧の文化に甘えてばかりではいけないのではないでしょうか。役僧に大きな負担をかけてまでお客さんを取らずに、人員に見合った制限をするか、先述したとおり宿坊業務は思い切って外部に委託するのも手でしょう。

寺院は、仏教を広め、壇信徒の心の拠り所となるのが目的です。宿坊業務はあくまでその方便(手段)のひとつでしかありません。なので、寺院側も、役僧側も、その手段が目的になっているがためにこんないびつな問題が生じているということを再三自覚しなければいけないのではないでしょうか。

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7 まとめ

個人的結論:寺院は、役僧に対して、今の時代にあった勤務や給与・休暇を与えるべき。そして、労働と法施・修行をきっちりと(業務規則で)選定すべき。無理なら客はとらない!

役僧は、従業員である前に僧侶であると自覚して、なんでもかんでも給与を求めるべきではなく、勤行などは自分の修行であり法施(仏様への奉仕)であると再認識すべきでは。(そこの線引きが修行者本人の判断では難しいんですけどね....。)

 

仏教は業(カルマ、おこない)によって結果が生じると説きます。

その業には、共同業と不共業があります。

共同業は、多くの人が少しずつ行ったことが、結果として大きな変化を及ぼすことです。例えば、富士山でのポイ捨て。ひとつのゴミはとても小さいので、「私くらいいいか」とゴミを捨てる。一つゴミがあれば、「私だけじゃないしいいか」と他人も捨てる。そうして、ひとりひとりの捨てるゴミは小さくても、数百人の人がゴミを捨てれば山はたちまち汚れてしまいます。結果、その小さなゴミによって富士山はゴミの山と化し、ユネスコ自然遺産の登録を却下されるに至ったのです。

このように、ひとりひとりの小さな我欲(わがまま)がつもりつもって、とても大きな規模で損害を出してしまう。これが共同業の一つの例です。

また、不共業とは、たった一人の行いが世の中や周りの環境に大きな影響を及ぼすことをいいます。

まるで、たった一人のお坊さんが世間に恥ずべき行為をしたならば、「お坊さんはこういう奴ばかりだ」「お坊さんは信用できない」と、世間全体の信用を失い、ついには志ある若い僧侶の道まで閉ざしてしまいかねないがごとくです。

 

今回の問題は、この共同業(たくさんの寺院としての傾向が、しらずしらず多くの役僧側を追い詰めていったこと)と、不共業(ひとりの役僧の声が、寺院の形態を大きく変えるきっかけとなること)が複雑にからまったものなのではないでしょうか。

どちらが悪い、どちらが正しいとはいいません。寺院側の気持ちも、。役僧側の気持ちもどちらも痛いほどわかります。

いま、寺院というのは、価値観が著しく変化する現代の急流に流されるだけでなくうまく乗りこなすように、その形態を変えてゆく必要があるのかもしれません。そして、僧侶一人一人に向き合い、無理なく修行できる環境を形成してゆくのも急務です。

同時に、僧侶一人一人が、自分は仏さまに生かされているんだということを再確認して、我欲を出さず、謙虚に真摯に、仏事に励まなければならないのではないでしょうか。

 

おわり。ナム。

不悪口院くるとん

お坊さんの神道考察⓪イントロダクション なぜお坊さんが神道を学ぶのか?其の一

 みなさんお久しぶりでございます。

すっかり暖かくなりましたが、お山ではまだ朝晩は冷え込みます。

最高の登山シーズンですが、僕は全然山に登れていません....

さて、前々から「神道について書きたい」とぽちぽち発言していましたが、今回はそのイントロダクション(導入)として、「なぜお坊さんが神道を学ぶのか?」というのを書いてみたいと思います。

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①なぜお坊さんは神道を信仰する?

お坊さんは、仏教徒でありながら神道を篤く信仰している人がとても多い。

それは、神道が日本人の魂の根底を支える土着の信仰であるのはもちろん、歴史的に仏教と神道は互いに支え合い、不足点を補いながら発展していった世界にも類を見ない関係をもつ宗教だという側面もあります。(これには批判的な意見もおおいですが...)

 

僕自身、神道大好き坊主なのですが、そのきっかけは高野山に点在する神仏習合の名残に興味を持ったからです。

今回は、その高野山神仏習合の特徴について書いていきたいとおもいます!

 

高野山神仏習合の聖地

奥之院を歩いていると、墓石の前に鳥居があるのを目にします。なぜ仏教のお墓なのに鳥居があるのでしょうか。その謎を解いてゆくには、まずは弘法大師高野山を開創された当時の伽藍の姿を考える必要があります

 

弘法大師高野山を開創されたとき、まず真っ先に伽藍の奥にある御社をお作りになりました。この場所は、高野山に流れる多くの清流の水源となっている弁天岳の尾根にあたり、かつては山内の寺院や宿坊に水を供給する水源でした。

水源というのは古来より神のおわすところとして信仰されたため、ここに御社をお作りになったのです。さらにお弘法大師は伽藍諸堂の中でも講堂(現在の金堂)の建設に着手しました。

伽藍の中心に講堂を据える構図は修験道の山に多く見られ、祭神が最も奥にあって本堂(金堂)の位置を占め、その前に大きな講堂(拝殿)があり、奈良の諸大寺とはちょうど逆になる(五来重修験道の歴史と旅』)のです。

 

修験道は、神道や日本古来の山岳信仰と仏教や陰陽道が結合して生まれた特殊な山岳宗教で、弘法大師も入唐以前は在家の山岳修行者でした。お大師さまが狩人に案内され高野山へと導かれたという伝説も修験道の山に多く見られる物語です。

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また、修験の山の入り口には、鳥居が設けられています。これは、「鳥居をくぐった先は死の世界であり、この世界で清らかとなった心身でまたもとの世界へ帰る」という『擬死再生』を象徴しています。

 

そして、高野山の古代の姿を知る最も古い資料である『根本縁起』の絵図では、修験道の山のように、大門は鳥居だったのです。こういった点から、高野山開創当初は修験道とかなり深い関わりがあったと推察されます。

 

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さて、これを踏まえた上で奥之院の墓石を見てみます。門である鳥居、中央には五輪塔、それを石の柵が囲んでいます。柵は元々「殯(もがり)」といって、神道では死霊の魂を封じ込める結界でしたが、仏教化して弥勒菩薩のおわす都卒天、つまり仏の世界を表すようになりました。五輪塔大日如来そのもので、魂の依り代であり、門である鳥居ももとは死の世界へ入る門を表していましたが、いまでは清らかとなった死者の魂を安住する仏の世界を結界する門へと意味が変わっていったのです。

 こうしたことから、高野山はお大師さまの時代から修験道に多大な影響を受け、今の姿へと変わっていったことがわかります。高野山は、弘法大師の青年期の理想を体現した山上の大宗教都市、神仏習合の聖地なのです。

 

つづく。ナム!

不悪口院くるとん

 

お詫び....

このたび、2件のコメントをいただいていたのですが、「承認」ボタンと「削除」ボタンを誤ってしまい、せっかくのコメントを消してしまいました...(T . T)

 

コメントしたのに表示されていない!という2名の方、申し訳ありません....

 

またコメントいただけると嬉しいですm(_ _)m

 

おわり!ナム!

不悪口院くるとん

伝統文化と『女人禁制』 宗教から考える女性差別

 

↑大相撲巡業にて倒れた舞鶴市長に救命処置をする女性

 

最近ニュースを騒がせている大相撲の不祥事。大阪場所を見に行ったばかりで相撲熱が上がっていた僕としては、残念でしかたのない報道の連続です。

そのなかでも、今回物議をかもしている『女性と土俵』問題。

 

>4月4日、京都府舞鶴市で開かれた大相撲の春巡業「大相撲舞鶴場所」で、多々見良三市長が土俵上であいさつをしているときに突然、仰向けに倒れた。場内は騒然とし、関係者がうろたえるなか、観客のうちから数人の女性が応急処置に駆けつけた。その際に、「女性の方は土俵から下りてください」と数回、場内放送が流れたことに批判が集まっている。 (ビジネス・ジャーナルより)

 

昨日、僕の職場に某テレビ局から電話がかかってきて「近世まで女人禁制を守っていた高野山ですが、今回の問題をどうとらえていますか」とのインタビューが。

それ自体は担当部署にお任せしましたが、その過程でいろいろと調べたうえで、思ったことを綴っていこうかと思います。

 

なぜ伝統文化・宗教で女性が差別されるのか

日本の宗教界では、いまだ女性差別が横行しているのが現状です。

それは、理論や信仰以前の、宗教者の遺伝子がそうさせてしまっているのは間違いありません。

宗教者の遺伝子・・・とは、血縁のように、連綿と伝わってきた法流(師弟関係によって繋がれた教えの血脈)を指した僕の造語です。

この宗教者の遺伝子は、伝統や文化を口伝で受け継ぐ良い作用も多分にある反面、「女性は宗教の表舞台に立つな」という差別的な見解も受け継がれてしまっているという側面もあると思うのです。

 

仏教でも、ブッダははじめ女性の出家を禁じていましたし、歴史上「女性は成仏できない」ともいわれてきました。

神道では『穢れ思想』というものがあり、月経をともなう女性は神事には参加できず、例外的に神事に従事する巫女も《11歳までの処女》が選出される・・・つまり月経前の女性しか選ばれないという『血を嫌う宗教者の遺伝子』が数百年も受け継がれていたのは事実です。

こうした、『女性である』というだけで無条件に差別する宗教的思想が、ごく最近まで当たり前のようにまかり通っていました。

今回の相撲協会の対応も、こうした伝統に影響を受けたものでしょう。

 

しかし、中にはいちおう理由らしいものがつけられている女人禁制も多く存在します。

日本では伝統的に「山の神は女性である」という考えから、『山の神が嫉妬する』という理由で山間部で行われる祭りは女人禁制のものが多くあります。

 

また、今も女人禁制を守る大峰山は、修験道の修業は非常に危険で死の可能性が多分にあるため、女性はこの修験の道場に入ることを許さない」としています。

 

さらに高野山では、弘法大師空海「女性は子孫長久の基本であり教えを広く伝える根幹で尊いものではあるが、こと《修行中の男性僧侶》にとっては欲望の根源にしかならない。なので、修行道場である高野山で、僧侶が生活するところは女人禁制である」と、今でいうところの男子寮的な扱いで明治期まで女人禁制を守っていました。高野山のお坊さんだからかもしれませんが、これは今でもそこまでおかしくない理論だと思います。男は馬鹿だから・・・笑

 

当時は、社会的に男性が中心であり(今でもそうかもしれませんが)女性はまさに『子を産み、育てるもの』としか考えられていませんでした。

世の中が平和であった平安時代や江戸時代はある程度女性の立場もあったそうですが、動乱の時代ではやはり男性が中心となってしまうのが世の常なようです。

 

しかし、現代社会はちがう。

 

『女性だから』だというだけで差別するのは、時代に逆行しているだけでなく、一人ひとりの能力を加味せず偏見で人を断ずる、無知で愚かな行為だといえます。

 

前回のパワハラ?愛情?お坊さんからみたスパルタ教育とは・・・映画『セッション』からみる「叱る教育」の功罪②でもいった通り、仏教には『対機説法』という考えがあるので、性差や人種などではなく、その人の個性や能力を見極めたうえで答えを出す、というのが正しい宗教者としての立場なのではないでしょうか。

 

相撲という伝統行事を守ろうという気概は否定しませんが、なんの意味もない差別を助長する伝統なら、捨ててしまったほうがいいのではないでしょうか。

女性差別を後押す伝統なんかより、もっと守るべき伝統があるんではないでしょうか?

 

大好きな相撲だからこそ、こうした残念な報道がなくなることを祈るばかりです。

 

おわり。ナム。

不悪口院くるとん


 

 

パワハラ?愛情?お坊さんからみたスパルタ教育とは・・・映画『セッション』からみる「叱る教育」の功罪②

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続きです。

 

前回は、天才を発掘するためには苛烈な指導は必要か という点を話しました。

個人的には、それは必ずしも必要でないと思っていますし、おそらくこの映画が伝えようとしているのも同じメッセージだと思います。

 

というのも、この映画のラストは、天才を育てることができなかったフレッチャーが、ついにはその苛烈な指導によって学園を追い出され、その告発者の一人である主人公に復讐する・・・というものだからです。(それだけでは終わりませんが・・・笑)

 

苛烈な指導は、もしかしたら天才を生むかもしれません。

しかし、その可能性は非常に低く、100人指導しても一人も天才が生まれないことだってあるでしょう。

逆に、生徒の心を打ち砕き、挫折させてしまう可能性はかなり高い。

100人中、100人が挫折してしまってもなんら不思議ではありません。

そうして挫折していった者たちを「奴らは才能がなかった」で片づけるのは簡単ですが、指導方法さえ違えば芽吹いていた才能だってあったはずなのです。

 

この映画の脚本・監督でもあるデミアン・チャゼル自身も、もとはジャズの演奏者として一流の教育を受けながらも挫折した過去があり、そうした異色の経歴や経験が、この名作を生んだのでしょう。

おそらくこの映画が伝えたかったのは

苛烈な指導は、1人の天才を生むかもしれない。けれどそれ以上に人の心を壊してしまう。

ということだったのではないでしょうか。

 

仏教には、対機説法という言葉があります。

それは、相手の機根(才能や能力)に対応して、ひとりひとり違う方法で説法するというものです。

まじめすぎる人には「まぁもう少し力を抜いて」と、逆に不真面目な人には「もうすこしコツコツやりなさい!」と、相手に応じて指導方法を変えていたんです。

相手に必要な教えを説く・・・だから仏教には様々な宗派があり、決められた一方向の教義がないんです。

優秀な一つのパターンをすべての人に当てはめるというのはいかにも西洋的ですが、柔軟さに欠けます。

ブッダは「中道ことが真理の道である」と説きましたから、なんにせよ行き過ぎた、極端ななにかは仏教的ではないんです。

 

・・・というわけで、僕の考えとしては

厳しい指導が必要で、かつそれに耐えられる人間であるならば苛烈な指導はあり。

しかし、大多数はそうではない。

苛烈な指導で、相手に努力を強要する前に、指導者が一人一人を見極め、それに応じた指導をすべきだ

ということです。

 

なんだか期間が開いてしまったので何を書きたいか忘れてしまいました。笑

でもこんなところです。

 

それでは。

 

おわり。ナム!

不悪口院くるとん