Sangha‐サンガ

日常に役立つ仏教を考える僧侶のブログ

いじめを防ぐための「地獄観」・・・幼少期の情操教育として

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「死んだら負け」

自殺をしたアイドルに関する話題で、ある芸人が発言した言葉です。

 

直接この発言に対して物申す気はありませんが、ここではひとつこの発言を揶揄して

「自殺させたら負け」という事を話したいとおもいます。

 

いじめの原因は学校ではなく家庭

まず、いじめの問題の全てを学校環境に求めている親御さんに言いたい。

いじめをした子供の罪は、親御さんの罪ですよ、と。

 

いじめというのは、著しい人権侵害であり、ときに暴行を伴います。いじめを受けた子供のいる親御さんは、いち早く警察や裁判所に相談すべきです。今の時代、携帯でいくらでも証拠は集められますから。

 

そもそも、いまの子供たちは、「悪い事をしても、親や先生にバレなければセーフ」という風に思っています。子供は思っているよりはるかに残酷で狡猾です。

しかしそれは、親の教育の結果です。

家庭内で、親の都合や、周囲からの目、社会的立場が悪くなるから、悪いことはしちゃいけません と教育していませんか?

そうした教育をしていれば、自然と子供は「外面だけうまくやれば、影でなにをしてもいいや」と、本能的に学んでしまいます。

もっと広い視野で、大きなスケールで、「悪い事をしたら悪いことが起こるんだ」と子供に徹底的に刷り込まなければいけません。

 

三つ子の魂百まで〜幼少期の情操教育

僕は、お寺生まれなこともあってか、祖父や親からさまざまな宗教教育を受けました。その中でも、もっとも印象的だったのは地獄についてです。

ある地獄絵図を見せられました。

そこには、墓から始まる死出の旅が描かれ、罪を犯した者は十三人の裁判官に裁かれ、人・天以外に餓鬼・畜生・修羅・そして地獄でその責苦を受けるのです。

その様が非常におぞましく、「絶対にこんなところに行きたくない」と思ったわけです。

そして、祖父や父に「父さん母さんが見ていなくても仏さまがいつもお前を見ている。悪い事をしたら、こういう風になるんだぞ」と散々脅されたわけです。

 

そんなことを幼少期に刷り込まれたので、大きくなるにつれても、悪いことをするのが恐ろしくて、親がいなくても全く悪いことができなくなりました。

ポイ捨て、いたずらはもちろん、ケンカやいじめも、恐ろしくて出来ないのです。

 

そういった風に、小さい頃に、悪いことに対する生理的嫌悪感を刷り込むことこそが、地獄絵図の役割であり、宗教教育の要なのです。

 

今の社会・家庭の風潮こそがいじめの根本原因

では、いまの世の中はどうでしょうか?

「目に見えないものは信じない」

「科学で証明できないものは全てペテンだ」

「神も仏もいない。」

「死んだら終わり。あの世なんてない」

そんなことを大人が言うのだから、子供が神や仏、そして地獄を信じるわけがありません。

そうすると、さきほども述べたとおり

子供は「親や先生にさえバレなければ何をしてもいい」と思ってしまうわけです。

 

すると、自分のしたいがままに振る舞い、人を傷つけても何も思わない、人を思いやる感情が欠如した恐ろしい人間が出来上がるのです。

 

地獄を信じろと言うわけではありません。しかし、幼少期の情操教育として、悪い事をしない癖をつける教育として、地獄という世界観、そして「お天道様が見ている」という意識が有効なのです。

 

地獄は人に心の中にある

そして、いじめをした子は、「バレなくてラッキー」と思っているかもしれません。

しかし、いじめられた側の心は地獄に業火に焼き尽くされていて、その憎しみは一生消えることはありません。

自分が気づいていないだけで、いじめは、自分の心を地獄と化し、さらに他人の心を地獄とする、恐ろしいものなのです。

 

そうした世の中の風潮は、全ての親が、そして社会が作り出すもの。

 

今一度、宗教に立ち返り、本能的に罪を嫌う教育を広めていくことが急務なのではないかと思うのです。

 

 

おわり。ナム。

不悪口院くるとん

四国へんろ旅① 修行と祖父のこと。

 僕が、僧侶としての基本的な修行を終えたのは平成21年の11月 でした。
高校入学と共に仏道に入り、小僧として修行しはじめてから4年目の秋。
100日間、テレビも、ラジオも、新聞も、もちろん携帯電話もない道場に籠もり、修行しました。山奥にある高野山のまたさらに山奥、まさに異世界とも言える道場。外界との連絡は一切遮断された空間で、ただただ仏と、そして 自分自身と向き合う。今思えばなんと贅沢な時間であったかと思うのですが、まだ18 歳の僕にとっては辛い時期でもありました。
 しかし、幸運なことに、師匠、環境、仲間、すべてに恵まれて10 0日間の修行を終えることが出来ました。今振り返っても、本当にかけがえのない 時間だったと思います。

 

3ヶ月以上の時間を過ごした寄宿舎を片付けて、意気揚々と山を駆け下りました。
住んでいるときは寺と木々しかないと思っていた高野山が、なんだか都会に見える...なにせ、人工的な音が一切無い場所で3ヶ月過ごしたにで、 車が通るだけで耳鳴りがするほどうるさい。お香と食べ物と、木々のにおいだけ を嗅いで過ごしたにで、排気ガスのにおいに頭がくらくらする。
高野山でこれなら、都会に行くと倒れてしまうんじゃないか。」 そう不安になるほどでした。法衣店のショウウィンドウにうつる自分の姿は、も ともと痩身だったにもかかわらず更にこけていて、もやしか爪楊枝に思えました 。

 

高野山の町に降りてから20分ほど歩くと、高校時代を過ごした師 僧の寺に着く。宿坊ではあるけれど、月に個人客数組しか訪れない小さなお寺。裏門をくぐり、お居間にいる師僧に「戻って参りました」と挨拶をすると、師僧は 「そうか」とだけ返事が。
続けて、「奥の部屋に、お前のお父さんが来ているから。挨拶してきなさい。」
と言われたので、荷物を玄関に置き、父のいる部屋へ向かいました。

「戻ったよ」というと、父は「おう」とだけ答えました。
師僧にせよ、父にせよ、もう少しねぎらいとかあってもいいんじゃ ないかなぁ・・・と思っていると、
「本堂に位牌があるから、手合わせてこい。」と言うので、そのまま本堂へ。

電気の通っていない本堂に、ろうそくの灯りをともすと、長年の薫香 ですすけた位牌の中に、ひとつだけ新しい、綺麗なものがありました。

これか、とおもい目の前に立ち、手を合わせ、ふと目をやると、その位牌には「明善和尚不生位」と 書いてある。
明善、祖父の名前です。

祖父は、晩年は病気がちで入退院を繰り返していましたが、僕が修行をしている間に
いよいよ逝ってしまったのです。
後から聞けば、両親ははじめ、祖父の死を僕に知らせようとしたらしい。実際、道場にも連絡はしたようでした。
しかし、祖父が逝く直前、「あの子には伝えたらいけない。知って どうなるというのか。修行の妨げになるだけだ」と言い残しており、父が、その気持ちをくみ取って、修行道場の師匠に
「住職が亡くなりました。あの子には伝えないでください。けれど もし、修行にくじけそうになったとき、先生からあの子に、なにかお伝えしてい ただけたら・・・」と伝えたそうです。

 

ああ、そうか・・・
思えば、修行が折り返しにさしかかったとき、精神的にも、肉体的 にも辛い時期
がありました。
そのとき、普段は厳格な道場の師匠が、穏やかに語りかけてくれたのを思い出します。
「おまえの修行は、お前だけのものじゃない。おまえを生んだ両親 と、すべての先祖様、育んでくれた仏さま、そのすべてがおまえに修行をさせ てくださっているんだ。
当たり前じゃないぞ。有り難いことだ。お前の中に、仏さま、親御 さん、おじいさん、おばあさん、ご先祖様が生きているんだ。」

そうか、師匠は、あの時この事を言っていたのか・・・と思うと、涙がこぼれてきました。

修行の最終日、道場の師匠が言っていました。
「この100日間の修行を終えたからと言って、ゴールではない。 むしろ、ここがスタートだ。お前達は、やっと仏道という長い長い階段の一段目 に立った。
これからも怠ることなく、修行に励みなさい。」


12月、北海道へと帰った僕は、修行に明け暮れる日々を過ごす・ ・・でもなく、
パン工場のアルバイトにいそしんでいました。
日中は、実家のお寺を手伝い、大学の受験勉強をして、夜に工場・ ・・もちろん勤行も欠かさなかったけれど、いわゆるお坊さんらしい生活では無かったように思います。

しかし、いまは、お金が必要でした。
修行を終えて、大学へ入学するまでおよそ半年の時間があった(もちろんこの時は受かるかどうかは未知でしたが)。
大学の試験日の2月頭までに、できるだけ貯金をしようと思っていたのです。

実は、祖父が亡くなったと知ってから、なにか祖父のためにしてあげたいと思っており、思い至ったのが、「おじいちゃんの供養の為に、四国遍路をしよう 」というものでした。


四国遍路は、弘法大師空海の足跡を辿って四国を一周する修行の道 。
そこを、祖父の供養と、自信の修行のために歩こうと思ったのです。
しかし、遍路にも金はいる。
時期が時期なので、毎日野宿というわけにもいかない・・・

ひとまず、30万円を目標に働きました。

 

平成22年、2月。四国遍路出発の日は、大学受験の翌日。
大学にて試験を受け、そのままの足で大阪まで向かいました。
旅行用のバックパックや、寝袋、靴等を購入し、
それ以外の装束は、すべて僧侶の衣体で統一しました。

若い店員に、「一番安い寝袋を下さい」と訪ねると、すこししどろもどろになりながら「えっ、あー・・・はい、えー・・・これですね!」と、中身も確認せずに手渡されたのが少し不安だったが、四国行きのバスの時間が迫っていた ため、急ぎ足で会計を済ませ、店を後にした。
それにしても寝袋が1500円とは破格だ。

 

あれこれと荷物を詰めすぎて、20キロにも達したバックパックを 背負い、徳島行きのバスに乗る。
美しい冬晴れの鳴門海峡は、初めての一人旅への期待を膨らませず にはいられない光景でした。

どんな旅が待っているのだろう。

冒険心がわくわくと躍る胸。

 

・・・しかし、そんな期待は、翌日、早くも打ち破られる事となります 。

 

徳島の民宿で一夜を過ごした翌朝、四国遍路初日。
2月の空はとても綺麗で、これから襲ってくる数々の困難に、僕は 全く気付かず
にいました。


つづく。

 

不悪口院 恵成

 

 

19歳、お坊さん。四国へんろの旅 プロローグ

 

こんにちは、不悪口院恵成です。

今日から、連載ものとして「四国遍路雑記」を書いてゆきたいと思 います。
当時の日記を見ながら、うっすら覚えていること、そして現在の自 分の考えを元
に多少補完しつつ・・・ぼちぼちと書いていければと思います。

先ずプロローグとして、僕はおよそ9年前の19歳の冬に、四国遍 路へ旅立ちま
した。
その時の出会い、トラブル、体験、すべてがお坊さんとして大切な 宝物となって
いまの僕に大きな影響を与えてくれています。
そんな、まだまだがきんちょ坊主の一人旅のお話を書きたいと思い ました。

しかし、当時はスマホもなく
カメラも持って行かなかったので
写真がほぼ皆無です。笑

なので、他から拝借したフリー写真などをイメージ図として載せな がら、情景を
えがいてゆきたいと思います。


ぼくは、いままでいくつかシリーズものを書こうとしたのですが

今のところすべて挫折。笑

せめて、般若心経考察だけでも完成させたいと思っているのですが ・・・汗

だらしなくてすいません。(_ _)

これは、なんとか完結まで持って行きたいと思います。

ゆるぅい一人旅だったので、文体もそんな感じになるかと思います が、
ゆるぅく楽しんで頂ければと思います。

また、結構リアルな体験談ですので、時に ばっちい話や、人によっては不快に
感じる話もあるかもしれません。

あくまで、当時19歳の若僧のお話ですので、ご容赦頂けると有り 難いです。

それでは、次回より、スタートします。

 

不悪口院 恵成でした。

ナム!

最近の時事ネタコラム

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こんにちは、不悪口院恵成です。

久しぶりの投稿です。みなさま健やかにお過ごしでしょうか。

 

まずはじめに、台風、地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

実は、北海道の地震で、僕の故郷も被災しました。震源地は、自坊から車でわずか30分ほどの場所。まさか、身近な場所が被災するとは夢にも思わず、まだまだ防災意識が低かったのだと痛感しました。

また、台風により高野山も多大な被害を受け、倒木などで墓石の破損が多く発生。いまはほとんど撤去されましたが、一時は大きく拝観規制も行われました。

 

また、災害については後日、書いて行きたいと思います。

 

 

さて、私は今、ある行事に参加しているので、高野山にて山ごもりの真っ最中。今日は、中日と言うことで久しぶりにゆっくりとしております。

 

最近、なかなか更新ができていませんでしたので、最近の時事ネタをお坊さん目線のコラム形式で書いてゆきたいと思います!

 

相次ぐスポーツ界のパワハラ問題

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思えばアマチュアレスリング協会の問題に端を発して巻き起こったスポーツ界のパワハラ問題。数十年もの間、暗黙の承知で表に出てこなかった様々なパワハラが、ここにきて一気に噴出している感があります。

そして、パワハラ問題のみならず、それを行った指導者の私生活や、運営する団体や学園にまで騒動が飛び火し、もはやなんの話をしているのかわからなくなってしまうのは日本のワイドショーの常と言えるでしょう。

僕は、個人的にはもちろん暴力は反対です。それに関しては、最近タレントの武井壮さんがすばらしい見解をツイッターで示していました。

 

「スポーツ教えるくらいの事で大人が子供殴っていいわけねえだろう。よく考えろ本当に、街で大人が子供殴ったら即通報で逮捕だよ。それが『スポーツ教える』が乗っかったくらいでチャラどころか『素晴らしい指導』になる訳ねえだろう。スポーツやってたらなんかいい事してるみてえな空気で正当化するなよ」

 

スポーツの世界では、怠けているとか手を抜いているとかではなく、シンプルに「うまくいかない」「結果がでない」などの理由で手を挙げるのは、意味が無いだけでなく不用意に選手を威圧してかえって良いパフォーマンスを奪ってしまうのではないでしょうか。

かつてのど根性・なにくそ精神で結果を出せる強い世代と違い、現代の若者は心が打たれ弱く繊細で、臆病です。しかしスポーツ科学は日々成長し、平均的なレベルは上がる一方。

いままで、暴力や恫喝で指導していた労力を、スポーツ科学に任せて、精神的なケアをすることを重視する方が結果が出やすい・・・というのは、グランドスラム日本人初制覇を果たした大坂なおみ選手が私たちに指し示してくれたのではないでしょうか。

 

しかし、僕たちお坊さんの世界では、未だに(暴力とまで言って良いかわかりませんが)頭をひっぱたくくらいの叱り方は当たり前です。それが前時代的と言われればそれまでですが、ひっぱたかれながら修行した僕としては、「口で怒られるより、ひっぱたかれる方が精神的に楽だなあ」と思ってしまいます。笑

 

僕はまだまだ若僧なので、誰かを𠮟ったり、ましてやひっぱたく事はありませんが、後輩が怠けているのを見かけたりすると、「𠮟ってくれるほうが優しい」というのが、わかります。

なぜなら、僕自身が、「𠮟るのは精神的にも肉体的にも疲れるし、そこまでしてやる義理はないからやめておこう」と思ってしまうからです。𠮟る側のほうが案外しんどいんですよね。

𠮟るというのは、相手の成長を願って行うものですから、生半可な覚悟じゃ叱れない。だから、𠮟ってくれる人は優しいと思うのです。

しかし、世の中には、相手を思いやるのではなく、自分の鬱憤、いらだちを晴らしたいだけで立場が下の人間を恫喝し、暴力を働く人がいます。そして、それは暴力をされる側も気付かないことがあります。DVと同じで、閉塞的な環境で暴力を伴った苛烈な指導を受けると、ある種の依存関係が生まれる場合がある。そうした環境は、周りの大人達が適切に、素早い判断をする必要があるのではないでしょうか。

 

・タトゥー騒動にみる承認欲求とエゴ

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とあるタレントが、妻と子供の名前を刻んだタトゥーをインスタグラムにアップして、炎上していました。

そして、その批判に反論してこんなコメントをしていました。

 

「それなりに予想はしてたけど、こんなにも偏見されるのかと思いました。

こんなに偏見のある社会 どうなんだろう。仕方ないよね。ではなく、僕は変えていきたい。

(中略)

結婚して、子供がいつかできたら、

家族の名前を身体に刻もう。と結婚する前、3年前から決めてました。

その3年でたくさん考えて、それなりの覚悟で入れました。」

 

この騒動で、僕が個人的に思ったことをピックアップすると・・・

 

1 タトゥーを入れることは自由。けれど、インスタグラムで自慢する必要はあるのか
2 タトゥーを入れたくらいでわざわざ批判的なコメントが殺到するネットリマナーの低さ
3 偏見という、逆差別
4 批判されてこんなことを言うって、全然覚悟出来てないじゃん・・・
という4点です。

 

一つ目は、タトゥーを入れること自体は自由だということ。自分の身体ですし、カルチャーとしても受け入れられつつあるもの。しかし、それをわざわざインスタグラムにアップして誇示してしまう、ネット社会、SNS社会だからこそ生まれてしまう自己顕示欲。批判をしたひとのなかでも、タトゥーそのものではなく、ことさらにタトゥーをアピールしたことに対する批判がいくつか見受けられました。

家族の愛を証明したいのなら、それは対外的なアピールではなく、あくまで家族の中で完結されるべきものではないでしょうか。それは、芸能人であろうが一般人であろうが変わりません。SNSは、祝福や賛美以上に嫉妬と悪意が溢れていることを、まだこのタレントは気付いていなかったのでしょう。

 

二つ目は、この問題で発生した異常な数の批判コメント。いわゆる「炎上」です。

これも、ネット社会によって露見した人々の心の闇ですが、現代はネットでだれでも公に発言できる時代。そして、気にくわないことがあれば誰かにそれをぶつけなければ気が済まない人が溢れているのです。人は、だれしも心に悶々としたフラストレーションがたまっていますが、かつてはそれをぶつける対象がありませんでした。なので、たばこや酒、趣味でそれを発散していました。しかし現代は、そういった不平不満をネットでぶちまけることができる。しかも、匿名で、特定の人物を、集中的にです。

この構図はいじめと何ら変わらず、「周りもやってるから自分も良いだろう」「間違ったことをしているんだから暴言を吐いても良いだろう」と、集団心理の中で無意識に自分が「相手を責め立てる側」に回ってしまいます。しかし、ネットを離れれば一転、健全な一般人。そこに罪悪感も生まれません。こうした、ネット社会とリアル社会の二重人格化は、きっとこれからの日本人にとっておおきなしこりになってゆくのは間違いありません。

嫌なら見なければ良い。しかし、なにかをきっかけに誰かを責め立てて、溜飲を下げることに快感を覚える。そこに罪の意識もない。むしろ正義感をもっている。ただ自分のストレスのはけ口に、SNSやネットを利用して人を傷つけるネットマナーの低さには、ほとほと辟易するばかりです。

 

三つ目は、「偏見」という言葉による逆差別です。

最近、自分の思想や趣味など、一般的ではないものを公にしてをそれを否定されると「差別だ!偏見だ!」とさわぎたてる事が多いように感じます。

今回の問題だと、タトゥーを入れることによる批判を「偏見」とし、「タトゥーを認めないこの世の中が悪い!」といわんばかりに「僕は変えてゆきたい」とコメント。僕は、大いに疑問を持ったのです。

タトゥーが受け入れられつつあるとはいえ、やはりそのルーツや、タトゥーを入れている人たちのイメージを考えると、やはりまだまだアンダーグラウンドな文化であることは否めません。しかし、個人の趣味として入れる分には批判されることは多くないと思います。しかし、それを誇示したあげく、批判意見を「偏見だ!」というのは、もはやそれは逆差別といえるのではないでしょうか。

かつて流行語大賞を受賞した「保育園おちた。日本死ね」も同じ。自分が気にくわない、うまくいかないことをすぐ社会や世間のせいにしたがる。自分が変わろうともせず、周りに変化を求める。自分の責任を、自分で果たせない現代人の甘えが顕現しています。

 

最後は、「全然覚悟できてないじゃん・・・」ということで、そのままです。笑

3年間考えて、覚悟決めてタトゥーを入れたなら、偏見とか、批判コメントとか気にせず、そんなものはスルーしてどーんと構えていれば、もっと男らしくて、かえって好感が持てたのでは。この「覚悟しました」発言が、かえって覚悟のなさを露呈してしまったのではないでしょうか。

 

お坊さん的に言えば、この炎上問題は、タレントが「僕はこんなにも家族を愛している!」ということを、自己承認欲求がためにネットにさらしたために起ったものだといえます。しかし、ネットユーザのリテラシーのなさが災いし、袋だたきにあったのはすこしかわいそうにも思えます・・・。

 

僕は、元来おしゃべりなので、修行中によく師匠から

「馬鹿はよくしゃべる。賢いものは聞かれて初めて口を開く」と言われました。

結局、僕のおしゃべりも、タレントさんのタトゥー問題も、「だれかにかまって欲しい、認めて欲しい」という承認欲求の表れに他なりません。

承認欲求は、誰しもにあること。しかし、それが認められなかったとき、自分のエゴを自覚せずに、周りの環境のせいにする、ここが、このタレントさんのもっとも愚かな部分ではないでしょうか。

弘法大師空海は「かつて自己が法教に乖越することを顧みず、かえって他人の経法に違反することを談毀す いわゆる己が膿み足をかくして他の腫れ足をあらわす者なり」と言っています。

「自分が間違っていることを隠して、他人の間違いばかりを指摘する」といった意味の格言です。

自分を見つめると言うことは、まず自分の行いを反省することから始まります。

それをせず、周囲にばかり改善を求めるのは、それはたんなる子供のわがままと変わらないのです。

 

 

以上、時事ネタのコラムを2つ、お届けしました。

おわり。南無!

不悪口院くるとん

Spoon というラジオアプリで配信してみました。

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みなさんこんにちは。暑い日が続いていますが、熱中症などにはなられていませんでしょうか...?

僕は今、知り合いのお寺さんのお手伝いで、お盆のお参りに奔走している真っ最中でございます...

 

さて、このたび、Spoonというアプリを発見いたしまして、登録してみました。

これは、誰でも簡単にラジオを配信できるというもので、以前から「文章もいいけどラジオしてみたいなあ」と思っていた僕にはうってつけのアプリです。

↓ラジオアプリ「spoon」

キャスト(録音)で配信してみました

不悪口院のRadio-Ji(ラジオ寺)

 

https://www.spooncast.net/jp/cast/34188

 

※音声が出るかもしれませんのでご注意ください。また、アプリ自体の宣伝ではありません!笑

 

いっちょ、15分ほど話してみたんですが...

 

自分の声はずかしい

滑舌の悪さに気づく

話がまとまっていない

という三重苦を突きつけられました。

 

ああ、ライブじゃなくてよかった...笑

っていうか肝心の題名いい忘れてるじゃん。

ラジオ寺ね、ラジオ寺。笑

 

できるだけ、毎週土曜日にでも配信していこうと思いますので、もしよければみなさん、聞いてみてください!

(アプリをダウンロードしなくても、ウェブ上で聴けるそうです。)

 

このブログをメインに、いろんな形でなにかを発信できればいいなーと思っています。

 

今後とも、よろしくお願いします!

 

おわり!ナム!

不悪口院くるとん

高野山 宿坊寺院の僧侶によるネットでの発言に物議。高野山のお坊さんからみたその実情と原因とは?

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/07/post-10691.php

 

またもや、高野山の宿坊が世間で物議を醸しています。

内容としては、

>マーティンさんがツイートしたスクリーンショットには、宿泊客からの次のようなコメントが含まれていた。「食事は質素なベジタリアン料理」、「例えば建物の歴史や教団について、それから僧侶としての生活について(中略)などを英語でもう少し説明してくれたらもっとよかったと思う」。

 

>このコメントへの宿泊施設側からの正式な回答として、次のような返信が投稿されていた。

「ここは究極的には修行の場だ。当然ながら、食事その他はすべて質素なものになる」。さらに、「西洋人だからという理由だけで特別扱いはしない」、「特別に説明してもらう人は誰もいない。これまでずっとそうだった」、「あなたが日本語や日本の文化を理解すればいいだけだと思うけど、でもそうじゃないんだろ。そんなに僧侶の生活に興味があるなら、頭を剃って自分が僧侶になればいい。以上」というものだった。

 

>またアメリカのエリックという人物が書いたコメント「スタッフがそっけなかった」に対しては、「なぜ我々がフレンドリーにしなければいけないんだ?????君たちはなんのためにここに来ているんだ???宿坊に対してなぜそんな歪んだ考え方を持っているんだ??」と返信されている。

 

>さらに別の人の「夕食と朝食は菜食主義で、これまでまったく食べたことがない味だった。不思議」というコメントには、「そう、日本の精進料理っていうんだよ、教養のないクソ野郎が」と、非常にきつい罵り語の1つ「Fワード」を使って返信が書かれている。

 

以上の点を、実際に高野山に住み、宿坊での修行経験、またお手伝いで高野山の様々な宿坊を渡り歩いた経験を元に考察してゆきます。

 

1 お寺はホテルではない
ひとつは、この僧侶が言うとおり、大前提として本来お寺はホテルではなく、あくまで修行の場であり、宿坊というのは高野山にお参りに来る方を「簡易的に」宿泊させるための施設であるということ。

しかしながら現状、高野山の寺院は、宿坊経営に収益のほとんどを頼っていて、そこに従事する職員や、寺で修行する僧侶の業務内容も、大部分が宿坊に泊まる宿泊客の対応なのです。

そしてなにより、宿坊をうたい、国内外の宿泊サイトに情報を掲載するのであれば、やはり最低限のサービスとマナーを提供するのは、これは至極当然であるということです。

「究極的には修行の場である」から、お金を払って宿泊する方に満足のゆく接客をせずに不快感を与えるくらいなら、そういったサイトに掲載しない方がましです。

 

2 修行の場だから・・・は甘
そして、高野山の多くの寺院の生活の中心が宿坊であるから、当然本来の修禅道場としての修行は二の次になります。事実、現在、高野山の宿坊寺院で修行する僧侶は「まず宿坊の仕事をして、空いた時間に、自分で修行をする」というのが実情なのです。

「修行をする僧侶がいる宿坊で泊まることが出来る」・・・そんな特別な空間を提供するのが宿坊の魅力なのに、宿坊が忙しいので修行ができない・・・なんともお粗末な本末転倒です。これにかんしては、僧侶自身というよりは、宿坊を経営する住職にもその責任があるといえます。

また、まともに修行が出来ていないにも関わらず、宿坊すらも疎かにして、それを指摘されたら「ここは修行の場だから質素だし、愛想がないのも仕方が無い」というのは、僧侶自身の甘えに他なりません。もし厳しい修行の合間、まさにその空間に宿泊客が「お邪魔させてもらっている」のなら致し方ありませんが、宿坊の掃除の行き届き方、僧侶の態度、お寺の雰囲気などをみれば、僧侶でなくともその是非は一目瞭然です。

修行をまともに出来ていないなら、せめてお参りにきた方々に、少しでも高野山のすばらしさ、ひいては弘法大師空海密教のすばらしさを、接客を通して伝える努力をするのが僧侶たる者の姿勢ではないでしょうか。

 

3 「僧侶にもフラストレーションが・・・」暴言を吐いた罪と、その心の罪は消えない

 

そもそも、真言宗には基本となる「十善戒」があります。

それは、身(行動)と口(言葉)と意(こころ)でそれぞれ犯してしまう業(おこない)。それを見つめ直して、良きは行い、悪きは行わない、というものです。

 

十善戒

(身)

不殺生(故意に生き物を殺さない。

不偸盗(与えられていないものを自分のものとしない。

不邪淫(不倫など道徳に外れた関係を持たない。

(口)

不妄語(嘘をつかない。

不綺語(中身の無い言葉を話さない。

不悪口(乱暴な言葉を使わない。

不両舌(他人を仲違いさせるようなことを言わない。

(意)

不慳貪(激しい欲をいだかない。

不瞋恚(激しい怒りをいだかない。

不邪見(善悪業報、輪廻等を否定する誤った見解を持たない

 

・・・このなかで、もっともよく犯してしまいがちで、かつそれを悪いとも思いづらいのが

不悪口(乱暴な言葉を使わない。)

不瞋恚(激しい怒りをいだかない)

です。

 

正直、この僧侶が言うことは、すべて間違っているとも思えません。事実、宿坊には色んな方がいらっしゃいますが、とても横柄な方、過剰なサービスを求めてそれに応えられないと異常なクレームを言う方、さわいでお寺の雰囲気を害し他のお客さんにまで迷惑をかける方、様々いらっしゃいます。それは日本内外、西欧東洋の別を問いません。しかも、いまはネット社会で、匿名のままあとからいくらでも理不尽なクレーム、低評価をつけることが出来ます。

しかも、ごく簡単に。

そういった方にこそ「お寺は修行の場だ」というのは間違っていないと思います。

 

しかし、その思いを感情のままにさらけ出した時点で、この僧侶は「星ひとつ」と評価せざるを得ないのです。

この僧侶は、批判をされたことにたいして瞋恚(激しい怒り)を起こし、その感情のままネットで悪口(乱暴な言葉)を吐いてしまいました。

日頃からフラストレーションがたまっていたと言って反省していますが、まずフラストレーションをゆがんだ方法で処理しようという心がそもそも修行不足と言えますし、それを言葉に出した時点でいよいよその悪しき思いは相手に伝わり、不快な思いをさせた罪は絶対に消えることはないのです。

 

4 ネット世界の弊害と、高野山宿坊寺院の仮題

しかし、正直僕はこの僧侶を激しく責め立てる気にはなりません。今回たまたまこの僧侶が、英語が堪能だったために世界に悪い形で広まってしまっただけで、今回の騒動に至った原因、経緯はもっともっと深いところにあり、長い時間をかけて形成されていったものなのです。そんな巨大な氷山の、ほんのひとかけらがいま露出しただけなのです。

それは、まずはネット社会。世間でさんざん語り尽くされているのであえてこの場で深くは言いませんが、誰もが自由に、名前と顔を隠して好き勝手発言できる世の中は、良いものなど何も生み出しません。SNSなども、最低限身分を明らかにしなければ、これ以上危険なものはないのです。(僕もペンネームでブログを書いているので、人のことは言えませんが...そのため誹謗中傷は書かないよう心がけています。)

思慮もせず、感情のまま誹謗中傷する癖が、現代人には根付いてしまっています。だからこそ今回、互いにネットを介して「好きなこと言って良いんだ」と勘違いをし、騒動を生んでしまったのです。

 

もう一つは、高野山の宿坊寺院の問題。

これは、前回の記事「僧侶の業務は修行?労働?修行した僧侶の視点で考える」(http://sangha.hatenablog.com/entry/2018/05/17/170843)でも書きましたが、高野山の宿坊寺院の現状はかなりひどい、というのが正直なところです。

修行とうたって僧侶を労働力としてしかみていない、宿坊寺院の経営のありかた。修行は自分でしてねと言わんばかりに、住職は弟子に何も教えない・・・そんな、宿坊寺院の甘えが、こんな所にも現れてしまっているのです。

 

5 最後に
膿は、見えづらいけれどどこかにたまっていて、大丈夫だろうと思っていてもいつか破裂してしまいます。いま、高野山は、そんな膿がたまりきって、すこしづつ、すこしずつ漏れ出ているような状況です。そのひとつが、弟子を育てる場であるはずの宿坊寺院の現状。このままにしていては、観光地としての高野山は存続するとしても、最も大切な教えの伝承と、お参りに来る人々の信仰心が失われてしまいます。

いま、まだ大きな破裂をしていないうちに、高野山のありかたを考え直すべき時ではないでしょうか。

僧侶の業務は修行?労働?修行した僧侶の視点で考える

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https://www.sankei.com/west/news/180406/wst1804060064-n1.html

世界遺産高野山和歌山県高野町)の寺院に勤める40代の男性僧侶が、うつ病になったのは宿坊での連続勤務が原因だとして、橋本労働基準監督署が労災認定していたことが6日、男性の代理人弁護士への取材で分かった。

 代理人弁護士によると、男性は平成20年から寺院で働き始めた。寺の宿坊の宿泊者らが参加する読経の準備を午前5時前から始め、日中は宿泊者の世話や寺院の通常業務に従事。繁忙期には、就業時間が午後9時まで及ぶこともあった。

 平成27年12月にうつ病を発症し、その後休職。同年の4、5、10月に休みが1日もなく勤務が続いたことなどが原因だとして、29年5月に労基署に労災申請。労基署は同年10月、少なくとも1カ月間の連続勤務が認められるとして労災認定した。

 寺院側の代理人弁護士は「コメントできない」としている。

 

 

 

このお寺がどこかもわかりませんし、高野山にある117の寺院はそれぞれが独立した宗教法人であり、経営や内情もそれぞれの住職に一任されているので、高野山全体がこうした実情ではないというのを先に述べてから、

現実として、寺院での生活は修行か?労働か?という点について、実際に高野山の宿坊寺院で3年間住み込み修行し、高野山の様々な宿坊でお手伝いをした経験からの持論を語ってゆきたいと思います。

 

1 観光寺院・信者寺、檀家寺・宿坊の違い
まず、お寺と一口に言ってもざっくりと4種類あります。

一つは、観光寺院。清水寺東大寺のように、観光客の対応が業務の多くを占め、収益も参拝料がメインとなります。そんななか法会や勤行も行いますが、僧侶でなくとも行える業務が多いのも特徴です。

次に信者寺。成田山新勝寺門戸厄神のように、法事や祈願などに訪れる信者さんの対応を主とする寺院で、一般的に『お寺』というイメージは、こうした寺院ではないでしょうか。結果的に観光寺院となっているお寺も多いですが、違うのは僧侶でなければ行えない業務が多い事です。

もう一つは、檀家寺。最も数が多いのがこの形態で、なんとコンビニや歯医者よりも多いといわれております!

最も格差がある形態ともいえて、寺院だけでは生活できず住職が副業をしているお寺から、多くの職員を雇う大規模なお寺まで様々。基本的には住職などが檀家さんのお家へお参りに赴き、仏壇で短いお経を唱えて回ります。多いときは30件以上のお家を回る上、法事や葬儀なども重なると一日働きッ放し。お彼岸やお盆はかなりハードになります。しかし、自営業のように小規模な経営が多いので、あまり労働基準の問題にならないのも特徴です。

 

そして最後に宿坊。今回問題になっている高野山の寺院は、この宿坊寺院に該当します。高野山は、117ある寺院のうち、実に52もの寺院が宿坊を兼ねています。

一つの地域にこれだけの宿坊があるのはもちろん日本で高野山だけ。『泊まれるお寺』のメッカなのです。

宿坊は、旅館のように個室、浴場を完備し、お食事も提供します。それゆえ、多くの宿坊が従業員を雇っていて、宿坊寺院で働く僧侶はおのずと旅館業務を務めることになります。普段の修行や勤行の準備、法事の他に、客室の掃除や準備、宿泊客の接客、食事の接待などもしなければならないので、業務内容は多岐にわたる上にハード、拘束時間も長くなります。

 

 

2 寺生と呼ばれる高野山の修行僧の一日
高野山では、“寺生”と呼ばれる学生修行僧がいます。お寺で住み込みをし、修行やお手伝いをしながら学校に通う学生で、高校生・大学生が該当します。基本的には「住まわせてもらっている」「ご飯をたべさせてもらっている」「修行をさせてもらっている」という立場になりますので、もちろんお休みはありませんし、お寺の業務を手伝うのも原則は無償です。しかし、最近は寺生になってもすぐ辞めてしまう、そもそも寺生になりたがらない学生も多く、少しでもモチベーションを保ってもらうために休みをあげたり、お小遣いをあげるお寺も多くなっています。

寺生の生活は、朝5時~6時に起床し、朝勤行の準備や宿泊客の案内を始めます。朝勤行に出仕する寺生もいますが、お客さんの布団あげや朝食の配膳にまわる学生も。

朝勤行が終われば、宿泊客の朝食の給仕をして、寺内の掃除をしてから、学校へと向かいます。

午前の授業の後、お寺によっては、中食(昼食)があるので、寺生は寺院へ戻りお客さんへの配膳や給仕を行い、すぐに学校へ戻り授業を受けます。

放課後、休む間もなくお寺へ戻り、宿泊客の対応、夕食の配膳、布団敷きなど慌ただしく働いてから、20:00~21:00ごろに一日を終えます。

もちろんこれは、宿泊客の多い大規模な宿坊の一日であって、お寺によって形態は様々ですが、基本的な流れはこのようになります。

 

3 役僧という雇用形態
役僧というのは、お寺で働く職員である僧侶のことです。上記の寺生のような生活を軸に、学生のいない日中に宿泊客の管理やチェックインの対応、法事などを行います。もちろん日中、数時間の休憩があるところがほとんどですが、気持ちとしては拘束されているように感じてしまいます。

寺生と違い休みもありますし給与が出ますが、今回の問題のように非常に拘束時間が長い上に業務内容もハードなのは事実。お寺という性質上、どこからが業務でどこまでが業務でないかというのが曖昧な部分も多いのが現実と言えます。なので、今回のように過労・心労の末にうつを発症、もっとひどい事が起きていた可能性も多分にあったと言えます。しかし、寺院側とすれば数十年もこうした形態は変わっていないわけで、役僧側から提訴されるというのは青天の霹靂。いままで、役僧の時間外業務に関しては「法務(仏への奉仕)」として考えるのが普通でした。時代が変わってしまったといえばそれまでですが、変わりゆく時代に、身近な所で対応出来ていなかった「身内への甘え」があったのも事実でしょう。

 

4 お寺に住む、ということ
寺生も、役僧も、お寺に住むものとして共通しているのは「仏さまに食べさせてもらっている」ということ。

給与は住職が出していますが、住職がいるだけではお寺に人は集まりません。そこにお寺があり、祈りが生きているからこそ人々はそこに集うのです。そこを勘違いして、「自分の業務によってお客さんが来て、収入があるんだ」と勘違いしてしまうことが、今回の問題の根底にあるのです。これは、住職も、寺生も、役僧も同じです。だれしも、その人本人の力などでは決してなく、「仏さまの手足」としてお客様に接しているだけにすぎません。

また、本来の僧侶のつとめは「祈り」ですから、それを疎かにして接客ばかりに手をとれれ、「働いている」と思ってしまっては、ストレスもたまってゆくばかり。

僧侶は「仏と信者さんをつなぐ架け橋である」という絶対的な事実は、観光寺院でも檀家寺でも宿坊でも変わりません。そこを再確認しなければ、この問題の根本解決はほど遠いでしょう。

日々の勤行、お客さんへの接待、掃除、そのすべてが修行であり、同時に布教であり、仏さまへのお供えでもあります。そこには給与や労働時間を越えた、修行者と仏さまの一対一の世界があるべきなのです。

 

 

5 宿坊の現実
・・・しかしながら、現実問題として、今は21世紀。そんな僧侶としての矜持は、世間には通用しません。世間は「お坊さんは世俗と離れるべきだ!!」といいながらも「労働基準を犯してお坊さんを働かせるなんて常識外れだ!」と叫ぶ、お坊さんとしてはなんとも肩身の狭い話ですが、事実としてそうした厳しい労働環境で苦しむ人が多い以上、これは寺院側が何らかの改善をするほかありません。お坊さんの世界も所詮社会の一部ですから、世俗を離れようにも離れることが出来ないのが現実です。

こと高野山の宿坊に関しては、慢性的な人員不足に悩まされています。お坊さんになろうという人が少ないのが第一、お坊さんを志しても寺生や役僧などの下積みは嫌だという僧侶が多い、そして、過酷な環境で、絶えきれずお寺を辞めてしまう人が多いのも一因です。

この負のサイクルは数十年、徐々に悪化し、得策もないまま今に至り、今回のような問題が表面化するに至ったのです。

さらに、住職が寺生や役僧を弟子ではなく従業員としてしか考えていない、寺生や役僧も、住職を上司としてしか考えていない、かつてのかげりもない希薄なつながりになってしまった師弟関係も、こうしたいびつな雇用形態につながっている一因です。

・・・最近では宿坊でも、寺院としての法事、勤行、信者とのやりとりは僧侶、それ以外の宿坊業務は派遣社員に委託するというところも増えています。最初は、味気ないしお寺らしくないという声もありましたが、こうした問題が起こり、僧侶の業務にも労働基準を求めるような世の中になってしまった現状、こうした方針は一つの解決策といえるかもしれません。

 

 

6 個人的に思うこと
何度も言うとおり、僧侶は、寺生であろうが役僧であろうが、お寺に住んでいるかぎりは修行僧です。お経を唱える時間、信者の方々に接する時間、修行をする時間すべてに給与が発生するようであれば、それはもはや修行でも何でもありません。

ただ、人には生活というものがありますから、やはり給与や休暇は不可欠です。自分自身が「修行ではなく仕事だ」と思うのであれば、なにも僧侶という立場でなくていいわけで、いち従業員として働き、まっとうな給与を請求すればいいのです。

そして寺院側も、寺生や役僧の文化に甘えてばかりではいけないのではないでしょうか。役僧に大きな負担をかけてまでお客さんを取らずに、人員に見合った制限をするか、先述したとおり宿坊業務は思い切って外部に委託するのも手でしょう。

寺院は、仏教を広め、壇信徒の心の拠り所となるのが目的です。宿坊業務はあくまでその方便(手段)のひとつでしかありません。なので、寺院側も、役僧側も、その手段が目的になっているがためにこんないびつな問題が生じているということを再三自覚しなければいけないのではないでしょうか。

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7 まとめ

個人的結論:寺院は、役僧に対して、今の時代にあった勤務や給与・休暇を与えるべき。そして、労働と法施・修行をきっちりと(業務規則で)選定すべき。無理なら客はとらない!

役僧は、従業員である前に僧侶であると自覚して、なんでもかんでも給与を求めるべきではなく、勤行などは自分の修行であり法施(仏様への奉仕)であると再認識すべきでは。(そこの線引きが修行者本人の判断では難しいんですけどね....。)

 

仏教は業(カルマ、おこない)によって結果が生じると説きます。

その業には、共同業と不共業があります。

共同業は、多くの人が少しずつ行ったことが、結果として大きな変化を及ぼすことです。例えば、富士山でのポイ捨て。ひとつのゴミはとても小さいので、「私くらいいいか」とゴミを捨てる。一つゴミがあれば、「私だけじゃないしいいか」と他人も捨てる。そうして、ひとりひとりの捨てるゴミは小さくても、数百人の人がゴミを捨てれば山はたちまち汚れてしまいます。結果、その小さなゴミによって富士山はゴミの山と化し、ユネスコ自然遺産の登録を却下されるに至ったのです。

このように、ひとりひとりの小さな我欲(わがまま)がつもりつもって、とても大きな規模で損害を出してしまう。これが共同業の一つの例です。

また、不共業とは、たった一人の行いが世の中や周りの環境に大きな影響を及ぼすことをいいます。

まるで、たった一人のお坊さんが世間に恥ずべき行為をしたならば、「お坊さんはこういう奴ばかりだ」「お坊さんは信用できない」と、世間全体の信用を失い、ついには志ある若い僧侶の道まで閉ざしてしまいかねないがごとくです。

 

今回の問題は、この共同業(たくさんの寺院としての傾向が、しらずしらず多くの役僧側を追い詰めていったこと)と、不共業(ひとりの役僧の声が、寺院の形態を大きく変えるきっかけとなること)が複雑にからまったものなのではないでしょうか。

どちらが悪い、どちらが正しいとはいいません。寺院側の気持ちも、。役僧側の気持ちもどちらも痛いほどわかります。

いま、寺院というのは、価値観が著しく変化する現代の急流に流されるだけでなくうまく乗りこなすように、その形態を変えてゆく必要があるのかもしれません。そして、僧侶一人一人に向き合い、無理なく修行できる環境を形成してゆくのも急務です。

同時に、僧侶一人一人が、自分は仏さまに生かされているんだということを再確認して、我欲を出さず、謙虚に真摯に、仏事に励まなければならないのではないでしょうか。

 

おわり。ナム。

不悪口院くるとん